-歴史紀行-  ―朝鮮通信使への道を拓く− J


玄界灘の波涛を駈けた承福寺の僧

=日本再派兵“慶長の役”へ=


偽りの明の和議使節を明側の降伏使節思う日本側の秀吉の提示する講和条件は明側も朝鮮側も受け入れ

られない内容であって和議の成立するはずはなかった。しかし、無益な戦争の終息を画策する日本側の小西

行長と参謀的存在の玄蘇和尚と明国側の沈惟敬の次ぎなる手段は明国皇帝に対して日本の関白の「降伏

使節」を送り日本側が従属を示すことによって、和議の成立を図って停戦に持ち込もうと言う算段であった。

勿論、戦勝の情報に浮かれ、朝鮮はおろか天竺への野望を抱く秀吉が「降伏使節」を送るはずがない。


明・朝連合軍による平壌城奪還図
そこで今度は日本国側の偽りの使節を戦場の現地で

仕立て、使節の正使に小西行長の家臣・内藤如安が

なり、副使にこの計略に精通し、漢詩、語学力の優れた

玄蘇和尚自らがなって明国・北京に行き、皇帝に会見し、

神宗皇帝の叱責を受けながらも、「日本軍の朝鮮撤退と

朝鮮との修好と共に、明国の属国となる」という3条件を

受け入れて、和議を成立させた。

このとき神宗皇帝は玄蘇和尚に対して法衣を下賜されている。明国とてこれ以上に多大の犠牲を払って、

他国への出兵は望むところではなく、平穏に事が治まれば、それ以上の懲罰を科せることもなかったの

だろう。その服従を誓って来た国の使節へねぎらいは大明国皇帝としての度量と威厳を示すことであった。

僧の立場の使節にたいする褒章は法衣を与えると言うのが、慣例であったようだ。玄蘇の師の湖心碩鼎

和尚も外交僧として、天文8年(1539)に大内義隆の派遣する遣明使の正使となり、将軍・足利義晴の

国書を携えて世相皇帝に拝謁したときにも唐衣を賜与されている。その風習は日本でも行われ、朝廷は

高僧にたいし紫衣を与えたり、大師や国師の号を与えて尊んだものである。

ともあれ玄蘇の計らいは成功し、和議は整い皇帝は

秀吉を日本国王として認め、その認証の使節である

明冊封使を日本へ派遣したのは文禄4年(1595)

10月であったが、途中双方の調整は難航し明冊

封使を秀吉が大阪城にて接見したのは翌年の慶長

元年の9月1日のことであった。この時、朝鮮側も

     明国皇帝が秀吉に贈った日本国土冊封文

使節を送り明冊封使一行と合流していたが、秀吉は朝鮮使節には接見を許さなかった。

明冊封使の正使は楊方享、副使は沈惟敬であった。ここで、明皇帝の国書と金印と冠服が秀吉に渡された。

秀吉はこの明国の使節は先の明の和議使節に与えた講和条件を受け入れて、秀吉に皇帝の位を贈り、

従属の証としての貢物くらいの感じで至極ご満悦であった。翌日は明使をもてなし祝う宴が開かれた。

徳川家康や前田利家などの重役の居並ぶ中、この宴たけなわのの時、秀吉は側近の外交僧・承兌に

明皇帝の誥命の国書を読せたのだった。ところが、この文中の「茲に特に爾を封じて日本国王となす」

の語あるのをきき、秀吉は激怒したのだった。

釜山に築かれていた倭館図
秀吉は明国が降伏し、自分に明国皇帝の位をもって拝謁に

来たものと思いこんでいたところ、自分の意に反する全く逆の

内容であったからである。玄蘇等の和平に向けての策略は

ここでいっぺんで破条してしまった。

せっかく和平が整おうとした寸前のことである。小西行長は

事前にこのことで、僧の承兌に「大明皇帝」と読みかえるように

頼んでいたのだった。

ところが、承兌は怖かったのか、小心で偽れきることがことが出来なかったのだろう。結局和議はならず、

秀吉は慶長2年(1597)再び朝鮮への派兵を命じて世に言う慶長の役が始まってしまった。

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