-歴史紀行-  ―朝鮮通信使への道を拓くー A


玄界灘の波涛を駈けた承福寺の僧

=豊臣秀吉の無謀なる野心=


古代、大和朝廷統一当初、日本は朝鮮半島への出兵(391年)という歴史の記録はあるが、それ以来日本と

朝鮮は最も近い国として、文化、経済等のすべてに渡り密接な友好関係にあった。その間には海賊、倭寇

(わこう)の侵入、略奪行為の被害は多々生じてはいたが、政府間においての対立ではなかった。

しかし、天正15年、島津氏の降伏で、日本の統一をほぼ達成した秀吉が東アジア一帯の支配という以前から

抱いていた無謀な野心を実現すべく、大陸への進出を図ったことによって、日朝関係は悪化し、遂に「文禄の役」

「慶長の役」という七年間にわたる侵略戦争へと発展し、曾っての友好関係は完全に途絶えることとなった。

秀吉は大陸への侵略を命じた

天正15年9月に朝鮮との交易盛んな対馬藩主・宗義智(よしとし)は、

貿易断絶を恐れ平和的解決を謀るため、家臣を遣わし日本国の国使に

仕立て、朝鮮国王へ秀吉の日本統一を祝賀する「通信使」の派遣を

要請した。しかし、仁義礼節を重んじる朝鮮としては日本は「簒弑(さんし)

の国」〈君主の位を奪ったり、君主を殺したりする野蛮な国〉として、

祝賀使節の派遣を拒否し、義智の交渉は不調に終わった。

その後、秀吉は対馬藩が朝鮮国との窓口であることから、宗義智に

朝鮮からの祝賀使節を送らせるように計らうよう命じたのだ。

そこで宗義智は、当時博多・聖福寺の景轍玄蘇和尚に朝鮮外交の交渉役を依頼し、玄蘇和尚を日本国代表

としての国使に、藩主義智自身が副使となり、家老の柳川調信(しげのぶ)が都船主、この他博多の豪商、

島井宗室ら25名にて通信使派遣要請を行うべく渡鮮したのだった。

玄蘇和尚は、天文6年(1537)筑前宗像郡・飯盛山城主、河津民部少輔

の二男。承福寺七世で、当時、隆尚庵主の湖心碩鼎(せきてい)和尚に

師事し、更に京都建仁寺、春沢清正和尚に参禅。のち師の湖心和尚の

跡を継ぎ隆尚庵に住持す。元亀2年(1571)宗像の領主宗像氏貞公に

請ぜられ、承福寺に八世として入り、氏貞の父、宗像隆尚公の25回忌の

予修法要をつとめた。その後、天正5年(1577)博多聖福寺百九世となり、

さらに対馬藩主・宗義智の要請をうけて、難しい日本と朝鮮外交の舞台で

活躍する外交僧として手腕をふるうこととなった。

玄蘇和尚の師の湖心碩鼎和尚は宗像氏貞公の父君、隆尚公の参禅の

師であり、宗像隆尚が長州大内義隆に仕えた時、湖心和尚も天文8年

玄蘇和尚は師の湖心和尚の
外交手腕を学んだ

(1439)大内義隆の請うを受けて遣明使の正使となり、天竜寺の策彦和尚を副使として、足利将軍義晴の

国書を持参して大明国世宗皇帝と会見し、大役を果たし、世宗より法衣を与えられるなど外交僧としての働きを

していたのだ。その弟子の玄蘇も詩文に秀で、その上、湖心和尚譲りの外交手腕を身につけていたのである。

通信使が出発した漢城(ソウル)の王宮

朝鮮王城に到り、誠意を尽くした玄蘇和尚等の要請に、朝鮮側も

これ以上断ることの不利を感じ、仕方なく日本統一祝賀の使節を

おくることを決め、翌年の天正18年(1590)に黄允吉を正使、

金誠一を副使、許筬を書状官とする第一回目の朝鮮通信使

一行を結団した。これを案内、引き連れて玄蘇和尚は日本に

帰ってきた。だが、難題はこれからさらに大きく玄蘇にのしか

かって来ることになった。              (つづく)


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