-歴史紀行-  ―朝鮮通信使への道を拓くー @



玄界灘の波涛を駈けた承福寺の僧

=プロローグ 朝鮮通信使の舞台裏=



歴史教科書の改訂をめぐって、また日韓関係はギクシャクしかけているかに見えるが、先年のW杯サッカーの

日韓共催の決定によって、日韓の相互理解と心の交流の動きが活発に行われ始めてきた。その交流史の

原点というべき、江戸時代の「朝鮮通信使」が見直され、脚光を浴びてきた感がする。


朝鮮通信使とは「信(よしみ)を通(かよ)

合わせる」との意味を持ち「信義に

基づく国交でありたい」という朝鮮国王

の遣わす親善使節である。

鎖国政策がとられた江戸時代において、

十二回も日本を訪れた公式外交使節団で、外交官ばかりか、勝れた文人学者・画家・書家・芸人などが数百

人が選ばれて来日しており、その文化交流の中で、日本文化の向上に果たした役割は大きい。今もなお、

通信使が残した遺跡やゆかりの地があり、祭りや習慣が各地に残っている。


そのゆかりの二十三の市町村で作る朝鮮通信使縁地連絡協議会が開く韓国との交流会や、毎年行われている

対馬のアリラン祭りのパレードのほか、ゆかりの各地でも通信使パレードが企画され、また日韓共同事業での

「朝鮮通信使再現」(ソウルから東京まで)の計画があるらしいということも聞く。京都市文化博物館と福岡県立

美術館ではそれぞれに「朝鮮通信使展」をひらき、新聞連載企画とあいまって大きな反響もあったといい、新たな

歴史認識が生まれたことの意義は少なくない。


しかし、信義なき日本の大陸侵略や植民地化による朝鮮併合など暗い

近代の歴史の中に、「朝鮮通信使」は埋没させられてしまって来た

過去の歴史の発掘は、まだこれからかもしれない。ただ、知る人ぞ

知る的に、歴史の興味ある素材として、この道の研究者も多く、

通信使に関する著書も沢山出されているが、なおベールの中に

あるような気がする。


ところが、今まで歴史秘話的にしか語られていなかった「朝鮮通信使」

による日韓交流の事実に着目したのがJR九州のジョイロード旅行の

歴史探訪シリーズでの特別企画であろう。

毎年、長崎県対馬厳原町ではアリラン
祭りとして、通信使行列が再現される。

昨年から今年にかけて「朝鮮通信使の足跡と文化を訪ねる旅四日間」−玄界灘の波涛をこえて、今蘇る日韓

友好の旅―の企画は大ヒットしたといい、日韓の歴史認識が見直され、新しい文化交流が生まれようとして

いることが何よりである。

      鎖国といわれた江戸時代にも朝鮮国の公式友好使節として、
      12回も訪れ、幕府他諸藩は丁重に迎えた。

その朝鮮通信使と、当時の日韓関係に

深く関わったのが、実は承福寺八世から、

博多・聖福寺へ出世して行った、景轍玄蘇

(けいてつげんそ)
和尚とその弟子の規伯玄方

(きはくげんぽう)和尚である。

このことから、承福寺に住する私も少なからず興味を覚え、この二人の禅僧を通しての朝鮮通信使に関する

書き物を一冊の本にまとめておきたいとの
漠然とした思いを抱き、いつか韓国へその資料収集や、関連の

写真を撮りに行きたいとの思いでいた。



そんな思いのある時で、JR九州のこの旅行企画は、これは将に好都合、言葉もままならぬ素人の旅は、

はかどらぬばかりか、たいした成果は期待出来ないのが目に見えるだけに、私は渡りに船とばかりに、

早速、その募集に乗ってツアー参加を申し込んだ。                           つづく

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