<今月の禅語>
~朝日カルチャー「禅語教室」より~ |
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天地一切の事々物々は、ことごとく仏のあらわれであり、真理の現れであると する仏教の立場から味わえる言葉である。釈尊は菩提樹の下でお悟りを開かれた時 「奇なるかな奇なるかな山川草木悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)」と喜びをあらわ されたといわれる。それは悟りの眼をもってみれば山川草木、森羅万象一切が 宇宙の大生命の現れであり、それぞれが仏の智慧徳相を表し、それぞれが大光明を 放っているのだということがわかる。すなわち「圓光」とはその大光明のことで あり、「獨露」とはそれぞれが力いっぱい己のすべてを露わに輝きださせている さまをいう。 |
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これを意図したわけではないが、承福寺の 庫裡玄関のすぐの室に先の大徳寺管長・桃源室 浩明老師の「獨露」の表具額を掲げている。 この宇宙に存在するものは皆悉くが真理の 当体であり真理の現れでないものはないという ことであれば、当寺に尋ね来る人も又同じ なのだ。大小、貧富、男女、美醜にかかわり なく、皆それぞれが力いっぱい自己を表現し、 大光明を放ってやってきているのだ。 あだやおろそかな対応はできないことである。 |
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昔、大徳寺の一休和尚が商家の大檀那に招かれた時、約束の時間に身なり質素な 法服を着て訪ねたという。出迎える商家の者は大徳寺の偉いお坊様なので、さも きらびやかな衣装の出で立ちで来られると思って待っていた。そこに、さも貧相な 格好の坊さんがやってきたので、商家の番頭は「いま大事なお客様を待っている 忙しい時なので、早々にお立ち退きを!」と貧相な坊さんを追い返してしまった。 ところが、実はその貧相な成りの坊さんこそ、一休和尚だったというわけである。 その顛末はさておいて、人は見かけによらずということもあるが、私どもは単に 見てくれがよいとか、表面的な姿かたちで物事を判断しがちである。 |
そういう偏見、断見によって真実を見誤る ことは少なくない。「よく見ればナズナ花咲く 垣根かな」の芭蕉だかの句のように、たとえ 目立たない雑草として見過ごされるナズナで あっても、ナズナはナズナとしての命を輝か せて力いっぱい咲きほこり、ボタン、 シャクヤク、ユリにも劣らず大光明を放って いるのである。 |
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私たちが求めてきた仏とか、大道とか真理とかいうものは人間生活の大きく かけ離れた高遠なところにあるような思い込みがあるが、そうではなく、 この心そのものが仏心であり仏の世界の顕現なのである。 「明歴々 露堂々」という言葉もあるが、是もすべての存在が明らかに、 すべての物事がはっきり現われ出ているさまで、そのままの姿のすべてが 真理の現われであり、仏の表れであるという意味である。 仏法とは必ずしも神秘的で深遠高尚なものではない。森羅万象は仏の化身で ないものはなく、眼前に隠すことなく偽ることなくはっきりとありのままに 露われ輝いている当体を見極めていきたいものである。 |
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