禅語に親しむ 

 <今月の禅語>     ~朝日カルチャー「禅語教室」より~


   年々歳々花相似 歳々年々人不同 (唐詩選)

   年々歳々、花相い似たり  歳々年々、人同じからず




 春は急ぎ来て、急ぎ去って行こうとしています。よく巷間では「一月は行ってしまい、

二月は逃げてしまい、三月は去ってしまう」と言われるように、あわただしい時の流れを

感じるのがこの春の季節である。早や福岡はお彼岸の内に桜の開花が気象台によって

宣言されたが、何もわざわざ気象台が開花宣言を出さなくても、そこそこの桜の開花には

ばらつきがあり花を見る人の感覚に任せればいいのにと、詩情のない気象台のいらぬ

お節介に腹が立つ。

 この花の時節に思うことは「年々歳々、花相い似たり 歳々

年々人同じからず」の唐詩の一節だ。わが昔のことだが、高校

入学式の時だったか校長先生の挨拶の中で、この名句を聞か

されて、なぜか印象深く記憶に残っている。その時はまだ

「毎年桜の花は同じように咲くが、ここに訪れてくる人の

顔ぶれは毎年変わる」と言うだけの解釈しかできなかったが、

この詩は劉廷芝の「白頭
(しらがあたま)を悲しむ翁に代わる」

と題するもので、栄華の移ろいやすいことを嘆いた、無常感

漂う内容の長い詩の一節だったのだ。


  洛陽城東桃李花  洛陽城東 桃李の花

  飛来飛去落誰家  飛び来たり飛び去って誰が家に落つる

  洛陽女児好顔色  洛陽の女児 顔色好し

  行逢落花長歎息  行くゆく落花に逢うて長歎息す

  今年花落顔色改  今年花落ちて顔色改まり

  明年花開復誰在  明年花開くも復た誰か在る

  已見松柏摧為薪  已に見る 松柏の摧けて薪となるを

  更聞桑田変成海  更に聞く 桑田
(そうでん)の変じて海と成るを

  古人無復洛城東  古人無復洛城の東に無く

  今人還対落花風  今人還た対す 落花の風

  年々歳々花相似  年々歳々、花相い似たり

  歳々年々人不同  歳々年々人同じからず


  寄言全盛紅顔子  言を寄す 全盛の紅顔の子

  応憐半死白頭翁  応に憐れむべし 半死の白頭翁



 「洛陽の町の東に咲く桃や李の花は 花チラシの

風に誘われて飛び来たり、また飛び去ってはどこかの

誰かの家におちる。洛陽の美少女は花を眺め、町を

歩き落花に出会ってはため息をつく。今年も花の

散りゆくように顔色も衰え変わってゆく。

 明年も復た花は咲く春が来るも誰がこのように

健在で花を見る人があろうか。…洛陽の町の東で

この落花を眺めた昔の人はもはやいない。

 …来る年ごとに花の姿は変わりないけれど、来る年ごとに見る人の姿は変わる。

花の盛りの紅顔の若者よ。今まさに老いぼれ死の淵に片足をかけたような白髪の老人を

憐れみたまえ・・」 あれほど咲き誇った花は見る影もなく散ってしまう。

 人もまた時々刻々老いゆきて、そして彼の黄泉の世界へと去ってゆく。一時一刻も

とぎれることのない大自然の動き、諸行無常は世の習い。花咲くも無常であり、花散る

もまた無常で常に変化してやまないのがこの世の常なのだ。諸行無常の世の中に、

常なるものは一つもなく明日のわが命さえ知れない。このはかない現世
(うつしよ)

なのに、いつまでもあるかのように迷夢に酔い痴れてお金に執着し、物にとらわれ

名声、名誉を追い求め、限りなく欲望を募らせて争い奪い合い憎しみ合い、殺し

合っての愚を繰り返しているのが私ども人間なのである。




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