<今月の禅語>     〜朝日カルチャー「禅語教室」より〜


   千江同一月 万戸逢尽春  (禅林類聚)

    千江(せんこう)同一の月 万戸(ばんこ)(ことごとく)く春に逢(あ)



 「水打てば 葉ごと葉ごとの 月夜かな」である。千江同一の月とは、すべて

の川面に同じ月影が映っているということ。万戸尽く春に逢うとは、どんな立派

な家だろうと、どんなあばら家であろうと春は分け隔てなくやってくるという

意味である。このように、仏のいのちは、いつどこにでも、随処随処に遍満して

いるのだ。大きな池の水面だから大きな月影が宿るわけではない。


 小さな手のひらに掬った水にも平等に同じ月影はやどる。

何処もかしこも仏のいのちが、仏の教えばかりじゃござい

ませんか。千ある池には千の月、千ある川には千の月。

汚れた水にも、清水にも皆同一の月である。

 月は汚い水は嫌や、美しい水が好きとか、あの池は美しく

写してやろうとか、やめておこうなんていう計らいはない。

 水も月影を映してやろうという自己意識はない。月も無心

であり、水も無心である。それを見る我も無心であると

いいたいところであるが・・・・。

 
「うつるとも 月は思わじ映すとも 水は思わじ猿沢の池」と誰の句か知ら

ないが奈良興福寺の猿沢の池は五重の塔伽藍をうつし月を映し美人を映し、

そうでない人までもありのままに映す。

 中世、臨済宗の中興の祖といわれた白隠禅師は「衆生本来仏なり」とうたわ

れているが人は皆、生まれながらにして仏のいのちを頂き、みな仏性をもって

いることである。

 人の社会には貧富、賢鈍、美醜の差別はあれど、

その差別にかかわりなく一切の人間は生まれなが

らにして尽く仏のいのち、仏の心を平等に頂き

宿しているである。仏性を具有しない人など

いない。仏性は誰でも具えているものなのである。

 今年の中秋の名月はいつかは知らないが、名月が夜空いっぱいに輝き、

そのすがすがしい、清らかな光が至らないところはない。どんな金持ちの

大邸宅であろうと、どんな貧しいあばら家であろうと分け隔てなく平等に

照らす。満月に託して仏の慈悲はすべての人、すべてのものに公平に注が

れている。そんな思いで今年の名月の鑑賞はいかがなものだろうか。




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