<今月の禅語>
〜朝日カルチャー「禅語教室」より〜 |
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黄龍慧南禅師の偈 鐘楼上念讃 牀脚下種菜 牀脚下の牀は床の字と同意で坐禅床のことで、念讃とは念仏奉讃のことで、 心に仏を念じ口に名号を誦し、仏徳を讃えまた報恩感謝をあらわす言葉である。 ただ、この念讃は通常は仏を祀る仏殿で行うものである。また菜の種を蒔き栽培 するのは菜園で行うのが常識であり禅堂の床に植えることはない。 |
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ところが、黄龍慧南禅師は「鐘撞楼の上において 念讃し、坐禅床に菜の種を蒔いて育てよう」という 意味は仏事勤行は必ずしも仏殿伽藍でなければ出来ない ことではない。修行底にあれば行住坐臥いたるところが 道場であり、伽藍であり仏殿である。菜の種とは悟りの 種、自らが仏の種をたる仏性を頂く身なれば、即ち日日 座る坐禅床にこそが菜園である。修行に場所を選ばず、 悟りというものも居処の善悪でもなく、学道の者は身は 貧なれど道貧ならず、衣食住に思い煩うことなく、ひた すら禅道の修行に励めという意味である。 |
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プロ野球の選手に対して「マウンドに金が埋まっている。しっかり練習に 励め」といわれ相撲取りにも「土俵に金が埋まっている。しっかり稽古に励め」 といわれるように禅道の者とて同じである。 禅床に悟りがあるのだと解することも出来よう。 |
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