<今月の禅語>     〜朝日カルチャー「禅語教室」より〜


  秋風淅々 秋水冷々 (虚堂偈)



 現代の日本の臨済禅の源をなす中国・径山万寿寺の虚堂智愚禅師の偈である。

南宋時代の禅僧、1185〜1269。虚堂智愚
〔きどうちぐう〕は臨済宗松源派の

高僧で大徳寺・妙心寺両派の禅の直系の祖である南浦紹明
(ナンポジョウミョウ)

禅師=朝廷により諡(おくりな)されて円通大応国師はこの虚堂和尚の元へ参じて

修行した。その大応とその弟子の大燈国師と大燈の弟子の関山慧玄の禅の法流

である応・灯・関は現代に伝わる臨済宗の唯一禅宗の法脈である。


 その禅流の源こそが虚堂智愚禅師なのである。今年は円通

大応国師(1235〜1308)の700年忌を記念して博多の

崇福寺において大授戒会を行い、また、9月30日より

福岡市美術館において大応国師と崇福寺展を開いて禅風を

広く理解いただこうとしているところである。また、応・

灯・関の源泉である虚堂の書は茶道界では非常に珍重

されているらしい。



 
この語は虚堂が嘉興府の興聖寺の住持の時の夏季の修行期間である夏安居

(げあんご)
が終わり、その厳しい制約が説かれる解制にあたって、これから

また次の結制までの間の諸国行脚に出る弟子たちに向けて与えた偈頌の一節

である。「秋風淅々 秋水冷々」とは夏も終わろうとしてざわざわと秋風が

立ち始め、水もまた冷たさも加わりひんやりとしてきたよ」と言う意味で

あり、この語自体には単なる季節の情景の一面を表したに過ぎない。

 だが、この語は次に続く語によって実によく虚堂の弟子

たちに対する親切さを感じさせるものである。

「一夏九十日の長い修行期間であったが、早やその夏安居

も終わろうとしている。春の色も残る初夏の結制から瞬く

間にも時は過ぎ、共に修行に励んできたがいよいよ解制の

時が来てしまった。ふと周りを見渡せば秋風はざわざわ

とし流れる水も澄みひんやりさが感じられ、すっかり

秋の気配がする。


博多・崇福寺所蔵 虚堂和尚項相

 諸君らもよく厳しいわが指導にも耐えてがんばってくれた。またこの解制

の後、これからまたさらに自らの修行としての道を求めて笈を背負いから笠、

雨具を振りわけにない行脚へ出て苦労を重ねることだろう。張公、李家と

言うのは中国人の姓では最も多い姓で、ここでは張さんのいるところ、

李さんの住む町並みを言う。とは一里塚と言う意味でそれらの家々、

町々を歩き回る旅路を表わした意味である。しかも宿無く粗末な草庵に

眠り、また草枕もあろう。諸君はこれからその行脚の旅に出て、苦難辛苦

が待っていることだろうが、くれぐれも放逸することなく、修行者としての

本文をしっかり護ってがんばってほしいと切に願っているよ」と愛弟子たち

に餞として送る言葉には深い道心と親切が現わされている。



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