<今月の禅語> 〜朝日カルチャー「禅語教室」より〜 |
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禅門で言うところの工夫とは一般的に使われる創意工夫とか、事に当たって 思慮したり手段方法を考える意味とは異なり、坐禅参学に当たって工夫弁道する というように修行における精進の意味を含む。 工夫も弁道も同意語であるが意味の強調として重ねられる。 |
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工夫は功夫としても用いられることも多く、坐禅に専心する ことを功夫坐禅とか功夫参学すべしなどと座禅修行における 公案の思量でもあり、また坐禅そのものとしての意も含む。 京都・天竜寺の開山・夢窓国師は「本分の工夫をなす人、 万事の中か工夫の中かとへだつべきことなし」と言われて いるが、本分の工夫をなす人とは本当に禅の奥義を窮めよう とする人のことで、真の参禅修行するものは、日常の万事が 修行であり、修行とそれ以外の俗事などとは分け隔てた生活は しないものである。 |
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座禅弁道以外の日常の行住坐臥、著衣、喫飯、 ![]() する)等一切の所作にも参学工夫があるのである。真に修行をなすものは坐禅以外 でも四六時中に弁道工夫がなされていなければならないのだ。 禅門の道場では坐禅ばかりでなく、托鉢や作務(さむ)としての庭掃除や 畑つくりの仕事があるが、坐禅の静中の工夫に対する動中の工夫として大事な 修行過程とし、「動中の工夫は静中の工夫にまさること百千倍」などと云い 大変重視されているのだ。 |
いわゆる修行のための修行なんて何の役にも 立たない。本来の日常の生活の中にこそ仏の 教えがあり真理とする道があるのである。 昔、私の参禅の師であり、当時の大徳寺の 管長であった小田雪窓老師は、私が典座 (てんぞ)という大勢の修行者の食事作りの お役をしているとき、私の所作を見ておられたのか |
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「典座は只の飯炊きの役ではないぞ、飯炊きは飯炊きになりきる動中の工夫を 忘れるな」と戒められ、また私が胃潰瘍で吐血して倒れて入院したときに、わざ わざ使いの雲水をよこして「樹下石上」とかかれた短冊をくださった。 樹下石上とは、もともと坐禅は樹の下、石の上でなされたことから始まるわけで、 坐禅は必ずしも禅堂でやるものとは限らないのだ。つまり樹の下、石の上どこでも 禅道場なのだ。お前は病院のベットに横たわっているだろうが、そのベットの上が お前の坐禅道場なのだ。ぼんやりとして無為に過ごさず動中の工夫を忘れるなと 云う意味の込められた短冊だったことを知り、老師の優しさと、厳しさと知らされ たことだった。 |
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