<今月の禅語>
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至道無難・・ 至道(しいどう)は無難なり 唯嫌揀択・・ 唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う 纔無憎愛・・ 纔(わずか)に憎愛無くんば 洞然明白・・ 洞然として明白(めいばく) 禅門の読み癖なのか、至道は「しいどう」とあえて読ませる。 至道とは真理に通じる道、いわゆる悟りに至る大道のことで あり仏道のことである。また菩提(さとり)そのものを意味する。 一般的に悟りを開くということは、大変な修行を伴い苦修錬行 があって容易に得られるものではないと云う受け止め方をされ るが、仏祖の大道と云うのは何の難きものではないのだ。 |
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唯、物事を対立的に見て、選り好みをし、取捨選択の思慮分別をして執着を するところに迷いが在るのだ。その揀択がいけないのだ。 わずかでも、憎愛の念ならば揀択に堕ち迷い差別の世界に陥るだろう。だが、 いささかも思量する言語(ごんご)無ければ、そこはもう、すっきりとした絶対 明白の悟りの世界である。今まで妙法といい、如来の真実義は百千万劫に遭い 難しなどと云われ、その仏道には深遠な哲理があり、至難な実践がなされな ければならないという思い込みがあった。だが、そんな既成の観念を打ち砕き、 何にも難しく考えることはいらないよ、悟りに至るのは実は簡単なことなん だよと一蹴してしまう言葉が「至道無難」である。 |
悟りをあらわす明珠や宝玉は既に掌にありと 云われてきた言葉と同様で、何も遠くに求める ことは無い、もとより霊明なる仏性はすでに わが身に備わっているではないか。 孟子も「道は近きに在り、而(しか)るに諸 (これ)を遠くに求む」と云い、人は行うべき |
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道は身近なところにあるのに、わざわざ高遠なところに求めようとすることを 戒め、いたずらに小難しい理論をもてあそぶのを戒めている。 私たちは何かことに当たってあれこれと考え、理屈をこねてなかなか実践に 移せないでいることが多い。事に当たって二元対立の分別心を起こし、いたずら に考え過ぎて迷ってしまう。下手の考え休むに似たりである。そんな是非、得失、 憎愛などの揀択をやめて、あるがまま、そのままの純なるこころでもって行えば、 まさに柳は緑、花は紅のそのままの自然法爾(じねんほうに)の世界なのである。 |