<今月の禅語>
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神通力と云い、また妙なる不可思議な働きや作用と云うことは、特別何か超常的 現象と云うものではなく、私にとっては毎日井戸から水を荷い運び、山に行っては 柴を担ぎくることの出来ることが、実にありがたいことであり、応に不思議な中に 生きているようなものだ。仏法不思議なしと云うように行住坐臥、一挙手、一投足の 中にこそ真実の仏法があるというものだ。 |
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中国の唐代、![]() もとで在家の身でありながら参禅修行して禅を極め、その力量は 出家修行者をしのぐほどで、お釈迦さまの弟子のゆいま居士に 比されるものがあった。 この語はその ![]() ![]() もってこたえた中の一節。 ![]() 什麼人ぞ」(あらゆる存在、万法一切との関わり、執われなく 主体性をもっておれる人とはどういう人でしょうか) |
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頭、手を以って、その口を掩(おお)う。豁然として省(さと)る有り(石頭和尚、 すかさず手を ![]() ![]() して悟る)後日 一日、石頭問うて云く「子(なんじ)、老僧に見(まみ)えて以来、 日用の事作麼生(いかん)」(やあ ![]() だが、その後の日常はどんな心境かな) |
士曰く「若(もし)日用のことを問わば、即ち口を開く処無し」 (なんと和尚、日常のことを問われても私は和尚に口をふさ がれて答えようもございませんよ・・・何も言わなくても すでに和尚に通じていることじゃございませんか) 頭曰く「子(なんじ)が恁麼(かく)なるを知って、方始(まさ)に 子に問えるなり」(お前さんがもう屁理屈を並べて自分の悟りの 境地をあれこれ言わないことはわかった。だからさらに問うて いるのだ。更に言え) 士乃(すなわち)ち偈を呈して曰く |
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日用の事、別なし 唯だ是れ自ずから偶諧(ぐうかい)す 頭々取捨にあらず 処々張乖(ちょうかい)を没す 朱紫 誰か号す 青山 点埃(てんない)を絶す 神通並びに妙用 水を荷いまた柴を搬(はこ)ぶ |
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この偈の意味は「私は日常の生活において心がけなどあり ません。ただ行住坐臥において自然のまま、あるがままの 生活です。何一つ好き嫌いなく取捨選択も世しませんから、 どこにあってもそむいたり、うまくいかないことなんて ございません。朱や紫の衣を着て位階にも関わり無く、 今の自分は澄み切った青山そのものでございます。 私は何一つ不自由の無い神通の世界にいるようなものです。 |
それはほら、この通り日用の営みである水を荷い運ぶことが出来ますし、柴を 切りこうやって搬び来ることができます。この日常の営みが出来ること、その ものが私にとっては神通の働きであり、仏の世界に生きて、生かされている奇跡で、 不思議そのものようなものです」まさに古人が言われる「仏法不思議なし」であり、 仏法とは『行住坐臥著衣喫飯』であるといわれる所以がある。 |
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