<今月の禅語> |
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中国瑞州三峰院の平 (ひょう) 和尚の問答の時の臨済禅師の応答の語である。 「直に万重の関を透り、青霄裡に住まらず」とあり。 |
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万重の関とは、十重二十重の厳しい難関のこと。この難関を 乗り越え透過するとは悟りを開くを意味する。 そこは青霄裡で雲ひとつ無い晴れ渡った大空が広がって清々 し尊い世界である。だが、いかに尊い境地であっても、悟り の本当の働きはその青霄裡に留まっていてはならないのである。 いかに大安心の悟りを得ようとも、そこに腰をすえておった ならば、禅者としての悟りの意味は無くなってしまう。 なぜなら、それは自ら一人の安心、満足であっては、大乗仏教 として、多くの人々の救済、済度という禅者の使命を果たす ことができないからである。 |
「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず」というように、禅者の悟りも、悟りすま して、いかにも悟りましたという雰囲気をかもしていることを嫌う。 「悟り臭きは上悟りにあらず」でまだ禅者としてはホンマモンではないのだ。 だから禅では悟後の修行というべき聖体長養を尊ぶ。大本山大徳寺の開山、 大灯国師は師の大応国師の下で大悟してのち、20年間京都五条の橋の下で 乞食の人々の中にいて過ごし、聖体長養されたといわれている。 |
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やはり悟りの高い境地に留まっていては、艱難困苦に迷う 衆生の現実は見えなくて、衆生済度者たるべき仏教者と しての働きはできない。そのためには自らが衆生の迷海、 苦界の娑婆世界の泥にまみれながら利他の精神から衆生 救済にあたってこそほんまもんの禅者なのだ。 |
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