<今月の禅語>

   生死事大 無常迅速




禅宗の僧堂では、毎日欠かすことなく、朝夕の時を告げたり、法要の知らせと

して木板
(もっぱん)と言う法具を撃ち鳴らす。わが寺にもあるが今は殆ど打つ

ことがなく、飾りみたいに本堂の廊下の隅に下げたままになっている。しかし、

その木板の表には「生死事大」の墨書があり、仏教者としての真実を求める

最重要課題である生死の問題を明らかにすべき事を投げかけられている。

道元禅師の主著「正法眼蔵」の抄録ともいえる

「修証義」の最初に「生
(しょう)を明らめ死を

明むるは仏家一大事の因縁なり、生死
(しょうじ)

の中に仏あれば生死なし、ただ生死即ち涅槃と

心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として

欣う
(ねがう)べきもなし、是の時初めて生死を

離るる分あり、唯一大事の因縁と究尽すべし」

とある。


生死の問題は人生そのものの一大の命題であり、生死を明らかにすることは、

すなわち迷い、煩悩を超脱し悟りの境地そのものを築くことに他ならないのである。

生とは何か、死とは何か、人間如何に生きるベきか、その究明こそ仏教者として

最も大事な修行課題なのである。だからこそ、その究明に時間を惜しんで修行すべき

だと言う激励の言葉として「生死事大」の語があり、その語に続く言葉として

「光陰可惜」
(こういんおしむべし)があり、さらに「無常迅速 時人不待」

(むじょうじんそく ときひとをまたず)の語がつづく。

朱子学で知られる朱喜の「少年易老学難成 一寸光陰不可軽」

(少年、老いやすく、学なり難し、一寸の光陰 軽んず可

からず)の句は有名である。

また詩聖・陶淵明の「歳月不待人」(歳月、人を待たず)の

語がその句と一つに重なり、織りなして、

生死事大 光陰可惜

無常迅速 時人不待


の語となり、禅門では今も大事な言葉として、修行者を木板の

コーン、コーンの響きを通してない朝晩、策励し続けてている。

 生まれて死ぬ一度の人生をどう生きるか

 それが仏法の根本問題です

 長生きすることが幸せでしょうか

 そうでもありません

 短命で死ぬのが不幸でしょうか

 そうでもありません

 問題はどう生きるかなのです

 この世において 生まれたものは死に

 会ったものは別れ 持ったものは失い

 作ったものはこわれます

 時は矢のように去っていきます

 すべてが「無常」です

 無常ならざるものはあるでしょうか



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