こころの紋様 -ミニ説教-


〜極楽は願うべきに非ず〜

無心の功徳行ありて


 中国の昔の有名な禅僧に趙州和尚と言う方がいました。八十歳まで行脚をして百二十歳まで生きた

方で、語録を残し数々の逸話を生んだ偉いお坊さんです。あるとき、その趙州和尚のもとに一人の

老婆がやって来て「和尚様、女は業深いもので成仏出来ないのだと聞きましたが、どうしたら女でも

そういう障りから逃れることが出来ましょうか」とたずねました。仏教で女は業深いとか、罪深いという

差別的なことはないとは思われるが、昔から男尊女卑的な社会的風潮から生まれた女性差別あった

時代の中での老婆の質問である。
  そこで趙州和尚は即座に「一切の人は極楽に生まれる

ように、この老婆だけは長く苦しみの海に沈むように」と

祈らせたのです。救いを求めて来た老婆に、自分以外の

すべての人は極楽にいけるように祈り、自分ひとりは長く

地獄に苦しむように祈れと指導したのですから少々

驚きです。 趙州とは何と酷いことを言う坊主かと思う人も

いるかもしれません。しかし、ここに趙州和尚の本当の

親切があり信仰があるのです。

 自分だけ救っていただいていい世界へ、極楽へ行こうと思うのは真の信仰ではありません。

自分はたとえ地獄の苦しみの中にあっても、その中で苦しむ多くの人を助けるべく、自分より先に

極楽へ行ってもらう、つまり、世のため人の為に自分を捧げつくし、活かしきる利他の行の実践なのだ

ということでしょう。これはまさに菩薩行です。しかし、趙州和尚は決してそのような説明はいたしません

でしたが、ただ、自分だけ救われようと言うような消極的信仰を否定し、自分のことより世の人の為に

役立って行こうと言うことを教えたのです。

 私には到底、趙州和尚のような指導は出来ませんが、自らの

極楽往生を願う人がいるとすれば、先ず自分の命ある限り

自分の一人の極楽往生する道としてより多くの人の為に尽くし、

自分の持てる力を生かして人様の為に捧げ奉仕の心がけを

説いていきたいものだと思ったことです。欲や計らいなく人様

の為に働きつくす人には必ず神仏の加護あることは昔から

聞かされ語られてきたことであり、信仰の功徳に違いありません。

 しかし、禅宗の信仰においてはあえて極楽往生を願って世のため人のために尽くす行為を説くもの

ではありません。無心の善行であり、無心の積徳功徳こそが尊いこととしています。承福寺門前に

住む人たちの中には、寺から頼んだわけではないのに自らの使命のように境内周辺の草刈をして

くださる人が居ます。住職のまだ起きない薄暗い時間に門前の草取り奉仕をして下さるご婦人が

いたり、本堂のお掃除など銘々の思いでやっていただいて、和尚の私は知って知らぬふり、お茶の

一杯も出しもせず、「ありがとう」の一言もいったことはありません。しかし、それぞれの無心の善行

功徳には深くそれぞれの御霊に刻まれ信心の証とされていくことでしょう。



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