こころの紋様 -ミニ説教-

 

死に際の美学

〜死ぬることは生きること〜

 

諸行無常は世の習いと言われるように、人の運命と言うのはあすのことさえ分からないものです。

昔から分からないものの代表は「明日の天気とコンニャクの裏表」と言われていますが、そればかりではなく、

プロ野球優勝争いさえも、わからないもので、多くの解説者の予想が外れることは珍しくありません。

ましてや最も分からないものは自分の明日の命の行く末かもしれません。

 人の死に際には、その人の人格のすべてが現れるとはよく言われることですが、どんな死に方であれ、人は貧富

貴賎に関わらず、なん人たりとも、この世に生を受けた時からいつかは"死ぬ"と言うことが間違い無く運命づけ

られています。

 その定めの時がいつになるのかは分かりませんが、昔の高僧と言われた方々の中には、ご自分の死の日を

一年も前より予見され、永久の旅立ちを準備され、辞世のことばを遺し、弟子たちに後事を托して亡くなられたりして

います。いつ死ぬか分からない凡夫の私たちであっても、やはり人の死は、その人の生涯をしめくくる最大の

ドラマであり、クライマックスです。出来ることならその時は厳かに、しかも美しいものでありたいものです。

 

 「武士道とは死ぬることと見つけたり」と言う有名な言葉があり

ます。「葉隠」と言う古い書物の中の言葉で、「葉隠」は武士道の

精神のバックボーンにさえなっていました。

確かに戦に臨み、死ぬることを恐れていては十分な働きは

できません。しかし、葉隠の「死ぬることと見つけたり」という

「死ぬる」とは、如何なる場所、如何なる場合でも命を惜しまず

平気で死ねるようになることであるという単純な意味ではない

はずです。 

 

 死ぬることを見つけた人の心の中にはもう、

生も無く、死も無く生死を超越しています。

禅の修行では師や先輩から「死にきれ」とか

「なりきれ」と厳しく諭され、励まされ、また大死一番

ということを要求されます。

それは、生への執着を離れ、生死苦悩の分別の

世界からの超脱をせよと言うことです。

 

 昔の武家が禅の精神を好み、禅に参じたのも、直面する死の超脱を常に考えたからでしょう。

「死ぬる」ことは生死を超越して大義に生きることです。生ききることです。武士道はともかく、凡夫の私たちも

如何なる苦難の中あっても、逃げることなく与えられた生を、精一杯に生きぬいてこそ、死の美学が存在し、

その臨終にこそ感動的ドラマがあるのだと思います。 


最後までお読み頂いてありがとう御座います。

 ぜひご感想をお寄せ下さい。

E-MAIL ns@jyofukuji.com

 戻り