-歴史紀行- ―朝鮮通信使への道を拓く− M
玄界灘の波涛を駈けた承福寺の僧
=徳川幕府成立と平和外交=
慶長3年秀吉は「つゆと おき つゆときへにし わかみかな なにわの事も ゆめの又ゆめ」の辞世の歌を 詠んだというが、その秀吉の夢は朝鮮ばかりか日本においても多大の犠牲を強いた悪夢であった。 秀吉は政権の確立とともに庶政を分担させるために、浅井長政、石田三成、増田長盛、長塚正家、前田 玄以を5奉行を任じていたが、朝鮮派兵で内外多難のために、5奉行制の上に5大老制を設け徳川家康、 前田利家、宇喜多秀家、毛利輝元、小早川隆景(後の上杉景勝)を指名して政務の総覧を命じた。 それは自らの死の年のことであった。自ら果たした日本の統一政治と豊臣の天下の維持と将来の安定という 後事を託すためであった。 |
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秀吉の辞世の歌 |
しかし、そんな秀吉の甘い夢も、その5奉行を中心とする豊臣政権護持派と 5大老の首班の徳川家康につく領国内独立派が対立し、慶長5年の「関が 原の戦い」へと進み、豊臣の没落へと向かうことなったのは皮肉なものである。 家康は秀吉の死とともに、速やかな戦争終結を図るべく、即座の撤兵とともに 五大老の第一の実力者として、政権を手中にしたも同然に、戦後処理にかか るとともに、翌慶長4年には秀吉の朝鮮出兵の過ちを認め、朝鮮と日本の通好 は両国の為に不可欠として、対馬藩主の宗義智に新たな日・朝善隣関係の 修復を図るべく指示していることは注目すべきことである。 朝鮮との通商交易で潤い、日本の朝鮮外交の窓口として特別な立場、扶持 知行にあずかって藩政を維持してきた対馬藩にとっては先の朝鮮出兵は、大半の 兵士を失った以上に、経済的疲弊は激しく、民衆は飢餓状態であったというから、 家康の朝鮮修好への働きかけは、願ってもないことであった。 |
しかし、対馬藩としては国交修復という悠長なことでは立ち行かない藩内の事情に迫られていた。対馬の 生きる道はやはり朝鮮との平和関係の中での貿易による他になかたった。だからすでに、藩独自に早急 なる貿易の再開と釜山に残る倭館の再開によって、藩の財政を建て直しへの試みをはじめていたのだった。 藩主・宗義智は日本軍の撤退から一月後の12月には朝鮮に使者を送り、翌年にも再三使いを出して和平 交渉への話し合いのきっかけをつくろうとしていた。そして、又侵略の折に連行してきた捕虜の送還を積極 的に行なうことで、その道を拓こうともした。慶長5年(1600)には百数十名の捕虜を送還し和議を求めた。 だが、いわれなき侵略にあい、蹂躙し尽くされた側の朝鮮としては安易に和平に応じられるものではない のは当然である。ただ、朝鮮と対馬藩には戦前までの長い付き合いがあり、互いに持ちつ持たれつしあっ た交易の深い関係と人と人との交流と友情が忘れられたわけではないのも事実である。深い痛手と恨み の傷が癒されるにはやはりしばらくの時がいるのも仕方がないことであった。 |
そんな中で宗氏の必死の努力は続けられた。その努力の 影には景轍玄蘇和尚が常に動いていた。景轍は送還した 捕虜の一人だった幼学金光(儒者)へ書状を送り和事を 促すなどの働きかけをおこなっていた。この金光の情報と 働きかけが、政府に伝わり朝鮮僧であり、日本の侵略に 対して僧兵を決起させて戦った惟政松雲大師を代表とする 「探賊使」の派遣となったのである。 |
文禄・慶長の役の歴史資料が収め られている「韓国国立晋州博物館」 |
日朝修好を大事とする家康もこの捕虜送還を指示して早期の問題解決のための支援をした。その捕虜の 中には儒学者や文人もいて彼らが帰国して、日本の情報を朝鮮政府へ日本からの再侵犯の心配のない ことも伝えられていることは和平への大きな前進となったことである。関が原を制した家康は征夷大将軍 となり、江戸幕府を成立させて、明確に朝鮮との国交回復を指示し、朝鮮李朝政府に対して朝鮮通信使の 派遣要請を宗義智に命じたのである。 |
僧兵を組織し、日本軍の侵略を阻み戦後は 日朝国交回復に努めた惟政四溟大師 |
対馬藩の熱心で誠実な働きかけは朝鮮側を動かしたに違いない。 慶長9年6月には僧・惟政(ユジョン)大師と孫文ケ(ソンムンウク)を 対馬に派遣することをきめ、宗氏に対し書簡をもって捕虜送還を謝す とともに対馬島人の釜山での交易を一時的に許す旨を伝えてきたの である。8月にはその惟政大師と孫文ケが朝鮮からの使者として 対馬にやってきた。彼らの来訪の目的は探賊使と言う名で言われる ように、賊の国の日本の国情を探べ、情報の収集であった。 秀吉の朝鮮出兵に従わず、その豊臣政権を倒した家康の平和外交 政策が果たして本物であるのか、未だ信じられるまでにはなかった。 |
徳川幕府を成立させたとはいえ、なお大阪城には豊臣秀頼、家康は孫の千姫を嫁がせて親戚関係を結んで いることからも、豊臣色に対する疑念がぬぐい切れないのは仕方がない。 ともあれ、講和への第一歩であることにはちがいない。対馬藩は使者を留めおき、すぐに江戸の家康のもとに 家老の柳川調信を遣わして国交回復の話し合いの好機であることを伝えた。 |