-歴史紀行-  ―朝鮮通信使への道を拓くー G


玄界灘の波涛を駈けた承福寺の僧

=船上の和議会談決裂の意味=


文禄元年(1592)5月3日京城(ソウル)は小西行長、加藤清正等の攻撃により陥落したが、実質のところ、

朝鮮国王以下すべての従臣、兵士は前日までには逃亡してほとんど無人の入城だったという。

国王は平壌(ピョンヤン)へ逃れ大明国の援軍を待ったのである。

朝鮮国王を追う小西行長軍に伴い従軍僧としての玄蘇和尚も平壌へと向かう。



日本軍の侵攻ルート
幾たびもの交戦を続けながらも、行長は無益な戦火を交えることは

避けたいという気持ちに変わりなく、宗藩家老柳川調信や玄蘇らに

諮りながら朝鮮側へ和議交渉を働きかけていた。その内容たるや

従来の「明国征服への道を拓くべき要求とまた朝鮮と和睦して朝鮮

の斡旋、仲介によって明国との講和を望んでいる」との趣旨の繰り

返しで、それはいわば降伏の勧告と同然の意味合いであり、その

ことさえ裏切られている朝鮮側はこの欺瞞に満ちた和議の申し入れ

に応じられるものではなかった。

ソウル陥落から一と月余、日本軍は平壌のすぐ側、大同江畔に迫り、

さらに圧力をかけ和議交渉を呼びかけた。

この結果6月9日朝鮮大司憲(司憲院の首職)の李徳馨がこれに

応じ、景轍玄蘇の計らいにより大同江に船を浮かべ、酒を酌み交わし

ながら和議への会談に入った。日本からは行長の意を汲む柳川調信

と玄蘇が臨み、朝鮮側は李徳馨の他に礼曹参判が同席した。

参判とは今流に言えば外務省事務次官というほどの要職だろう。

船上の酒宴とはいえ、戦渦の中、言葉無く、お互いに腹をさぐりあう重苦しい空気に包まれているのも当然で

あろう。玄蘇は55歳、当時代ではすでに老境にあり、外交交渉においてはベテランである。「まぁ今日は、腹を

割って腹蔵なく語り合いましょう故にどうぞ」と玄蘇は李徳馨や調信に杯をすすめながら、穏やかに語り合う中

での和議成立に努めようした。しかし、日本側の主張は曲げられず、従来の「日本の明国、征服への荷担要求」

の繰りかえしでしかなかった。この時の会談の記録は「懲必録」「朝鮮王朝宣祖実録」に記され、わが日本の横暴

なる要求がわかる。

玄蘇は「日本は、ただ朝鮮の道を借りて中原(中国)に朝貢せんと欲する

のみ。しかし、朝鮮はこれを許さず、故に、事此処に至れり(戦乱となった)

今亦、もう一度国王は漢城に戻り、国王として、わが日本に中原(中国)に

至る道を開かれよ。日本はその道を借り、日本が中国に達したならば、

すなわち朝鮮は無事でおれる。」という厚かましい要求を徳馨に突きつけた

のだ。徳馨は直ちに「若し、日本が中国を侵さんと欲すと言うのなら、なぜ、

海路を渡り浙江省の方に向かわずして此方に向かってくるのか。

これは実にわが国を滅ぼさんとする計略であろう。

惨殺図

天朝(明国の朝廷)は乃ちわが国の父母の邦なり、死すとも日本の要求に従うわけには行かない」と語気荒く

日本の要求をはねつけた。戦況不利、平壌の街は日本軍に囲まれ王城は陥落寸前であるとはいえ、謂われ

なき侵略を受け、国の威信をないがしろにされ、民族の誇りを傷つけられて、その上にさらに日本の要求を

受け入れられるはずは無い。この李徳馨の拒否の弁に玄蘇は「然らば即ち和すべからざるなり」と言い和議

会談は決裂に終わった。

正に茶番に似た和議会談である。当初より成立の可能性があろう筈は無い。歴史家の見方によれば、此の

大同江の船上会談は当然の決裂を日本側は想定し、平壌攻撃の口実を得るためのものであったとする。

その任に当たったのが承福寺から出た玄蘇和尚であったのはいささか後孫の住職の私としては誠に恥ずか

しい気がする。しかし、私の見方は違う。なぜなら、日本側がいまさら平壌攻略の口実を作るということ自体が

可笑しいことである。何の理由も無く、いきなり大軍を以って攻め、殺戮、強奪、焼き討ち、何万人もの人民を

捕虜として拉致連行を繰り返しながら、京城を攻め落とし、そして逃れる朝鮮国王を追って平壌まで攻めて

来たわけで、あえて攻撃の口実を云々と言う考えなどあろうはずがない。



東莱府殉節図(日本軍の城攻め)
私は承福寺の住職だから、玄蘇の肩を持つつもりは無いが、少なくとも

従軍僧である前に仏教者である玄蘇和尚としては、いわれなき戦争を

早期に終えたい、異国に来て戦う内に理性を失い殺人鬼と化した日本軍

人を安堵させ、無益な流血を止めさせねばならないと言う思いがあった。

戦乱の中にも彼は行長と諮りながら停戦に向けての働きかけを続けて

いたのである。船上会談に臨んだ李徳馨とは釜山での地方官のとき

から外交交渉など幾度となく会い、書簡から詩文のやり取りなどをする

間柄であったという。李はやがて中央政府の要人に出世し、玄蘇は

従軍僧であり、亦それ以上に軍事参謀的役割を担って小西軍に寄り

添っていた。そのふたりが心ならずも両国の立場の代弁者として会い

あうことになったのである。

戦刃を交え、敵対しあうもの同士が、第三者の仲介も無く戦場のど真ん中の船上で会談を持つこと自体、

その二人の信頼があっての実現なのである。少なくとも玄蘇は平壌への攻撃の口実つくりのためにこの

会談を開いたのではない。彼は無駄とは承知ながらも、万が一にでも可能性があるならばという、一縷の

停戦の道を模索したかったのである。玄蘇が示す「征明仮途」の要求は決して玄蘇自身の本意ではない。

日本の太閤・豊臣秀吉の朝鮮、明国征服の野望に諸大名も誰一人として抗しきれなかったのだ。その

秀吉の絶対命令と、やむなく侵略に荷担しながらも、内実は無益な戦渦を治め朝鮮外交を維持したいと

いう対馬藩・宗義智や、宇土城主・小西行長らの思惑との間にたっての苦肉の策から編み出された玄蘇

和尚の外交交渉術が、「征明仮途」だったのだ。

もちろん朝鮮側の受け入れられるはずは無いことは玄蘇も十分承知のことであった。しかし、少なくとも、

この幾度となく訴えた「征明嚮導」や「征明仮途」の要求によって、行長や、対馬藩としてはあくまでも戦刃は

交えたくない、流血は避けたいという事の意思を伝えんための、執拗な訴えでもあった。李徳馨はそんな

玄蘇の内心の訴えを十分理解し汲んだ上で、しかし、国の立場を代表するものとして、言葉でこそ激しく怒り、

断固日本の要求をはねつけたのである。大同江の船上会談は和議会談と言う名目ではあったが、実は敵対

しあい、これから戦刃を交えねばならない知己の者同士が互いの本心を打ち明けあい仁義を交わす場で

あったのである。

船上和議交渉決裂で日本軍は再び平壌攻撃に転じた。朝鮮軍も反撃、逆襲にでるも、5日ともたず大勢は

日本に傾き、6月14日には朝鮮軍は平壌撤退、脱出を図り、翌15日には日本軍は京城同様、無人の平壌城

に入った。だが、日本の攻勢は長く続くはずはなかった。



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