-歴史紀行-  ―朝鮮通信使への道を拓くー F


玄界灘の波涛を駈けた承福寺の僧

=踏みにじられた朝鮮の人々の涙=


朝鮮にとっての防御の要の釜山鎮城と東莱城の瞬く間の落城の報せは朝鮮全土にとんだ。それはまた

全土を恐怖をあおる報せとなった。日本軍は侵攻はすさましく、もはや敵なしの状態で、中央路沿いにある

朝鮮側の砦も防塁の守備隊はほとんど戦わずして撤退し、逃げ出す有様となったという。4月13日釜山

攻撃から20日たらずして5月2日夜には首都・漢城の陥落へ至らしめた。

日本軍のその戦状たるや、日本の第一軍の司令官、小西行長は釜山の町を焼き払い、城を攻め、城兵は

おろか非戦闘の人々まで容赦なく虐殺したという。


熊本県宇土市、城山公園の
小西行長像
「吉野甚五左衛門覚書」と言う記録では

みなてをあはせてひざまづき、聞きもならわぬ唐ことば、

まのうま
のうということは、助けよとこそ聞こえけれ。

それをもみかた聞きつ
けず、きりすてうちすてふみころし、

是をいくさがみのちまつりと。
女男も犬猫も、皆きりすて

て、きりくびは三万程とこそ見へにけり


(皆手を合わせひざまずき、聞いても分からない朝鮮語であっても、助けてくれと

いっていることは分かる。
それを味方の日本軍は一切聞かず、斬り付け討ち捨て、

踏み殺し、是を軍神の血祭りとばかり、女男、
犬猫さえも皆切り捨てて、斬り首は

三万ほどであった)
と記されている。〈上垣外憲一著「空虚なる出兵」を参照〉

日本軍のこの残虐な行為は秀吉の命によるものであった。秀吉は戦功を競わせるためか「高麗国ノ軍中

御壁書之事」と言う命令書を出している。その中に「異国軍兵ノ首塚ツクルタメ、戦場ノ斬首ハイウニオヨ

バズ、老若男女僧俗ニ限ラズ、コトゴトクニ薙切ッテ首級ヲ日本へ渡スベキナリ」となんだかおぞましく、

まごうかたなき狂気の沙汰の発令であった。

これはいわゆる戦争ではない。殺人集団の一方的乱入であった。

平和なる故の無防備の釜山の町も朝鮮の城も無防備に近かった。しかも、攻め来る相手が、今まで

友好関係を結び深いつながりに結ばれていた対馬藩の宗義智であり、キリシタン大名の小西行長が

先陣であっては信じられないことに違いなかった。

義智は玄蘇和尚をに使いして投降を呼びかけたというが、謂われなき

侵略に応じようがないのは当然のことである。

当時に来日キリシタンのフロイスの「日本史」には「釜山には六百の兵士が

いただけで、あとは付近の村落から借り集められた庶民たちだった」と伝え

ている。そこへ、第一陣だけでも1万8千の精鋭の大軍が襲ったことからも

分かるように、これは戦争でなくも日本の惨たらしい蹂躙行為でしかなかった。

朝鮮側の資料の「懲録」では「その時、賊は、三道を蹂躙した。その通過

するところでは皆、家屋を焼き払い、人民を殺戮し、およそわが国の人を捕ら

えればことごとく鼻を削いで威を示した」と記されている。

鼻の受取状

日本の従軍僧の慶念の「朝鮮日日記」でも「わが国の武者の暴れようは、全くすさまじいものだった。

民の家々は申すに及ばず、野も山も燃えるものはすべて焼きたてて進んでいく。白衣の〈朝鮮服の〉人が

目に映れば、老若男女の区別なく叩き斬り、あるいは捕虜にして、くさり竹の筒であごを縛って引っ立て

来た。親は子を探し、子は親を求めて嘆き悲しむ有様は、いかなる地獄図にも描かれていない悲惨さだ。

――今日もまた見た。何するつもりか、朝鮮人の子供を縛りとるのを。その侍に手を合わせて嘆願する

両親を、その場で討ち斬って子供を連れ去った.・・・」と。

何んという傍若無人は所業であろうか。これらの切り取られた何万という鼻、耳の集められた悲しい歴史の

遺跡が京都市にある耳塚としてとどめられてはいる。、それは加藤、小西の戦果によるものだとも言われて

いるが、恥ずべき歴史の裏面としてか、一般にはあまり知らされていない。

文禄慶長の役の犠牲者の供養塚

もちろん韓国にもその犠牲者の供養塚はあって、私はJR九州の

ジョイロード旅行の歴史探訪リーズの旅の途中で案内してもらい、

持参した香を手向け大悲咒の経を誦して回向をさせてもらった。

最近聞いたことであるが福岡市の香椎宮にも耳塚があるという。

しかし、これは、たとえ耳塚であるととしても、文禄・慶長の役の時

のものとは、場所にしてもいわれにしても無関係のものように思え

るが、いつか一度検証してみたい気もする。

日本軍の蛮行はまだ続く。第二軍の加藤清正は東海岸よりの東路から北上し慶州へ至った。慶州は仏都と

いわれ、仏教盛んな街だった。清正は直ぐにその寺院のすべてに火を放たせて灰燼とさせている。

清正は寺院伽藍が敵の拠点になることを恐れ、侵攻の安全のための焦土作戦にでたのである。

さらに、占領地の住民の選別にあたり、技術者、医師、絵師、陶芸師、織物師などの職人はことごとく捕虜と

して日本に送り、秀吉に戦利を報告し、他の住民は義兵になることを恐れ大半を殺害したのである。

日本の他の武将たちも戦功を上げるために競って同様の殺戮をしたことであろう。

従軍僧慶念は「日本より人身売買せるものきたり、奥陣より後につき歩き、男女老若買いとりて、縄にて首を

くくり集め、先へ追いたて歩み候らわねば、あとより杖にて追いたて打ち走るらかす」と記録しているように

奴隷のように捕虜を売り買いしていた。このように日本軍は朝鮮侵略により実に六万以上もの捕虜を強制

連行し来て労役に酷使したことは、日本の歴史では教えられてはいない。

歴史探訪の旅の韓国のガイドさんによれば、加藤清正に対する風評はすこぶるに悪く、日本軍の所業の

すべてが清正のせいのように、彼に押し付けられていたほどであった。あれほど殺戮の先陣を果たした小西

行長については、キリシタンであるということからなのだろうか、キリスト教国の韓国ではあんがい恨み的な

言葉がなく、その後停戦、講和、終戦へ働いたことへの高い評価をもたれていたのは意外であった。

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