-歴史紀行-  ―朝鮮通信使への道を拓くー E


玄界灘の波涛を駈けた承福寺の僧

=対馬の地を踏み歴史の風に吹かれて=


私は玄蘇和尚と承福寺の関わりから、朝鮮通信使への関心が芽生えたころは、朝鮮通信使とは、まったく

平和の象徴的友好使節団なのかとの印象であった。だが、知るにつけ随分泥臭く、また血なまぐさい臭い

歴史の裏面と向き合わなければならなくなってきた。

平成六年の二月、当時、福岡市博物館の学芸員であって、日本美術史の他に中世博多、筑前の禅僧の

行実を研究されていた、渡辺雄二氏が調査の一環として当寺を訪れ、玄蘇和尚が書き記した詩文集である

西山寺は慶応の末年まで以酊庵の
移転先で、ここで朝鮮外交が行われた。

「仙巣稿」の中に承福寺の記述があることを教えてくれ、

そのコピーを送って下さったことがある。

彼も朝鮮通信使の歴史的関心が少なからずあって、近く

対馬に渡り、玄蘇の開いた以酊庵の跡、西山寺にまつ

られる玄蘇和尚の像や、対馬各地に伝わる朝鮮渡来の

仏像などの調査研究に、他の学芸員と共に行くから、

私も一緒しないかとのお誘いを頂いた。

渡辺氏も若かったが、私も今よりは若かったはずだ。しかし、他の二人の学芸員はもっと若く、一人はきれい

な女性であったが、それぞれに専門分野をもち、その道においての専門家として博物館で活躍している人たち

であった。もう何年も前なので、日にちも時間も忘れているが、福岡空港からわずかの半時間程度であったが、

初めて対馬に降り立ったときは、なんだか外国へ来た感じがした。早速レンタカーを借りて走り出したが、私は

まったくスケジュ−ルも宿も知らされてなかったし、聞いてもいなかった。ただ、玄蘇和尚の御像に見え、墓所に

拝し、和尚の活躍したその処に立ち、その空気を感じるだけの目的しかなかった私は、他人ごとのように他の

スケジュールなど、どうでもよかったのかも知れない。真っ直ぐお目当ての西山寺に着く。博物館のほうから

事前に寺へは連絡はしてあったらしいが、和尚は、本山の方へ出かけ不在であった。

しかし、寺総代で郷土史家の長郷嘉壽氏が出迎えて

くださり、懇切に種々説明、宗家の菩提寺など案内をして

下さって地理不案内の私たちはおヽ助かりだった。

西山寺では念願の玄蘇和尚の御像の他に、玄蘇の後を受け

てまた通信使と深く関わった、弟子の規伯玄方の御像が

あって、共にわが宗像の人で、玄方は承福寺の近くの出身

であることからより懐かしみを覚えた。玄方も当寺から出た

玄蘇和尚を慕って対馬へ渡ったにちがいない。

玄蘇和尚の墓(現在は西山寺墓地へ移転)

博物館の学芸員たちは調査の写真だけでなく、開山禅師として祠壇に手厚くまつられている御像を引き出し

細かく寸法を取ったり、覗いたり正に研究者になりきって調査している様子に、私は他の寺の和尚ながら、

ハラハラしながらも、連れてきてもらった遠慮もあって、何も言えず、ただそれを眺めるだけで、諌めることが

出来なかったのはいささか悔やまれることであった。まだ若かったでは済まされぬ和尚として自分の至らなさ

を痛切に感じ、ご不在の西山寺和尚に申し訳なく思った。


以酊庵開祖の玄蘇和尚像
ともかくも、対馬に来て、西山寺の本堂の縁側にたたずみ、厳原の町と

港の出入りの船を眺めては、往時の様子を想像し、また、通信使一行の

応対は如何であったろうかなどおもい浮かべながらしばしの時を過ごした。

玄蘇の墓は西山寺と向き合う山の麓にあって、民家を過ぎて畑の細い

あぜ道を登ったところに藪に覆われそうな状態で小さく、ひっそりと建って

いた。朝鮮につながる海をいつも眺めるように建てられたのだろうか、

歴史の荒波にもまれ歴史の裏面を創った一人の禅僧にふさわしい姿かも

しれない。(今は管理しやすいためだろうか、西山寺の墓地の方へ移転されている)

当時、釜山には日本人街というべき倭館があり、何千人もの日本人がすみ、交易が盛んに行われて平和

そのものであった。誰が日本からの侵攻を予測したであろうか。秀吉の命は当時は絶対的なものであった。

朝鮮派兵は第一陣の小西行長、宗義智、松浦鎮信らの軍1万8000人をはじめとし、第九陣まで編成され、

総勢15万8000人の陣立て決まっていた。対馬藩の生き残りをかけて和平努力につとめた宗義智、その

宗氏に娘を嫁がせている小西行長らはもとより交戦の意志はなかったが、つづく二軍の加藤清正、鍋島直茂

らの二万2000の軍、三軍の黒田長政、大友氏の1万1000余の軍勢に押し出されるように、釜山を攻め

たてざるを得なかった。日本の侵略を予想だにしていなかった釜山は守りの手は薄く、一日にして陥落させられ、

その日本の勢いは先の東莱城を囲んだ。

一軍に従った玄蘇和尚はなお一抹の不戦の可能性を

願い先般の交渉の「仮途入明」(明国に至るための道をかりる)

の要求を再三叫び続け、城の門外にその旨の『戦わば即ち戦え、

戦わずんば即ち道を仮せ』立て札を出して交渉を望んだ。だが、

朝鮮側としては、人を愚弄するのも甚だしい限りである。いきなり

攻め入られ、多大の被害を及ぼされて、いまさら何の譲歩も、

交渉の余地もないことは当然である。もちろん「戦死するのは

易し、道を仮すは難し」と返書を投げつけての拒絶である。

  対馬厳原港は今も韓国と結ぶ国際港である

当時、朝鮮は永きに渡って平和が保たれ戦役を知らず、軍隊はあれど実戦の経験がなかったといい、その

逆に日本は戦国の世で戦いぬき、ようやくその戦乱を修めようとしているときであり、軍備、軍略訓練、実践

すべてにおいて、洗練された軍事大国であったといえる。結果は明白で二日を要せずして東莱城は陥落した。

あとは二軍、三軍と次々に日本軍は繰り出し、破竹の勢いさながらに朝鮮半島一円を攻め立て、攻め上り、

首都漢城へ迫った。この間の日本軍のすざましいまでの、残忍で非道な殺戮は信じがたいものであった。

日本ではその歴史の暗部ベールに包み、一般には全く知らされてない。

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