-歴史紀行-  ―朝鮮通信使への道を拓くー B


玄界灘の波涛を駈けた承福寺の僧


=かなわぬ和平交渉=


日本統一の目鼻がほぼ付いた秀吉は朝鮮、明国への進出への野望を抱き、朝鮮外交の窓口たる対馬藩主の

宗義調を通じて朝鮮国王に日本来朝をもとめ、さらに服属を求めていた。深く朝鮮に関わり友好関係にあった

対馬藩としては、この無謀な交渉に応じきれるものではなく、また、朝鮮側も秀吉の信義にもとる交渉に応じる

はずがないことを知るだけに、使節派遣要請の任を漢詩文にたけ、しかも先師の湖心和尚から学んだであろう

外交術に期待して景轍和尚に懇請し、託したのだった。そんな豊臣秀吉の命を受けた景轍玄蘇和尚は、日本国

統一祝賀の使節派遣要請の正使として朝鮮国王に拝謁したのだった。

通信使来航図

その玄蘇和尚の老獪にして巧みな交渉術により、今まで使節

派遣を拒み続けてきた朝鮮側も、隣国である日本との善隣

関係の維持には、ひと先ず応えざるを得なかったといえる

お国事情もあったらしい。いずれにせよ、かくして室町幕府の

使節交流以来、実に一世紀半ぶりの使節外交の再開となった。

さらに、その規模においてはその頃をはるかに凌ぐ大規模の

使節団であった。

1530年3月6日通信使一行は漢城(ソウル)を出発、2ヶ月近くを要して釜山に至り、海路、対馬、壱岐、筑前

藍の島から下関に入り、瀬戸内海沿岸の各地に寄航しながら大阪堺へ。

堺から更に幾艘もの船団で、管弦を奏でながら淀川を上り、7月21日京都に入ったという。

どこの寄港地でもそうだっただろうが、この時、淀川の岸には珍しい異国の来客を一目見ようと大勢の

見物人が群がったといい、洛中においても群集が押しかけたという。

その時の京都での寄宿舎は洛北、紫野.大徳寺があてられた。

大徳寺はわが承福寺の本山であるが、秀吉はこの大徳寺法堂

において、主家である織田信長の葬儀を営み、織田方家臣の

中で、自らの地位の確立を図った寺である。

その大徳寺山内には信長の菩提所として秀吉が建造した

ばかりの総見院があって、ここを使節団の主たる宿舎に

あてたのであった。

通信使の宿舎となった大徳寺の山門

ところが、その時秀吉はいまだ小田原にあって、北条攻めの途中であって、通信使との会見の段では

なかったのである。日本統一の祝賀を要請しながら、いまだ完全な統一が出来ていない状態に、使節団

一行はどう思ったことだろうか。もちろんその事は使節団には秘せられていたであろうが、誠に無礼な振る

舞いといわざるを得ない。秀吉は北条氏を制圧して9月1日には京都に戻ってきたが、通信使節と会った

のはなんと11月7日のことである。その間、使節団一行は総見院を一歩も出ることがなかった。

なぜなら、朝鮮王の国命を伝えるために来て、その任を果たさず、街中へ遊回することを自ら許さなかった

という、儒教の礼節を重んずる国の人の人柄を物語るものであった。

玄 蘇 和 尚

さんざん待たされて、ようやく、聚楽第において秀吉に謁見した

朝鮮国王使節は祝賀国書を渡したが、この時、秀吉は正使の

黄允吉
(ふぁんゆんぎる)、副使の金誠一(きむそんいる)書状

官の許筬
(ほそん)等使節一行を日本への服属使節のように

思ったらしい。勿論歓迎し、もてなしたがその態度は礼儀に

失っするものがあり、また、秀吉が朝鮮側へ与えた答書には、

朝鮮側に対するいくつかの無礼があり、あたかも朝鮮を日本の

属国のような見方をして、何れ明国への侵攻の道案内的手先の

役目の「征明嚮導」を命じたのであった。


何とか穏便に、事を収め和平を維持しようとした、玄蘇や宗義智らの外交努力も所詮小手先だけのまやかしに

過ぎなかったということになった。しかし、その時できる最大の外交努力であったに違いない。玄蘇和尚は使節

来日が不調であったこととはいえ、またその一行を再び案内し、朝鮮へ送りまたソウル王城に入り、仁政殿に

於いて国王に拝謁し、秀吉の征明の意思を伝え、かなわぬ和平交渉にあたった。       (つづく)

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