<今月の禅語>
〜朝日カルチャー「禅語教室」より〜 |
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原典に触れてはいないが、この語は法華経の化城喩品(けじょうゆぼん)の中の 喩え話に由来するという。「一人の先達のもと大勢が宝探しに出かけたが、 その道は遠く険しいものだった。一行の多くが疲労困憊し宝探しをあきらめて 引き返そうではないかと言い出した。神通力をもつ先達はそこで方便を以って 架空の化城をつくり、しばし大勢を憩わせた。人々はそこにホッとして疲れを 癒し一安心を得て満足しきったが、肝心の宝探しへの旅を続けようという気力を 失いかけてようとした。そこで先達の道人は時を見計らいその架空のお城を消滅 させて「汝等いざ宝所近きに在り、先ほど休息したる城は我が方便で作った幻影の 城であってひとときの憩わせるもので本当のものではない。さあ皆さん目指す 宝所はもう近くです」と励ましながら再び宝探しに向かったという話がある。 |
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ここでいう宝所というのは悟りの世界の彼岸であり、極楽 浄土である。優れた先達とは釈尊のとこで宝を求める一行 とは道を求め悟りを目指す大勢の人々のことである。 たとえ悟りを求めての道心はあっても道のりは遠く、苦行 ばかりでは挫折し修行をあきらめてしまう人々も少なくない ことだろう。ささやかな喜びやご加護的ご利益は本来の悟り ではないが、本来目指すべき悟りへと導く手段として有効に 方便は生かされることである。但し、この「宝所在近更進一歩」 の語を禅語として用いる上においては、白隠禅師座禅和讃に あるように「衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて 氷なく 衆生の外に仏なし 衆生近きを知らずして 遠く 求むるはかなさよ・・・」そのものである。 |
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十二月八日はお釈迦様がお悟りを開かれた日としての成道会(じょうどうえ) である。そのお釈迦様のご成道〈大いなるお悟りを開かれたこと〉の時、 「森羅万象みな悉くが仏の智慧徳相を具有す」と申されたという。 簡略にいえば「この世にある全てのものは仏の世界の中にあって、全てが仏の 尊い命を頂いているのだ。人も同様に生まれながらにして仏の尊い命、仏の心と 言うべき仏性を備えもっているのだ」と言うことである。 |
すなわち仏性こそ宝所そのもの、生まれ ながらにして本来備わっている宝を持ち ながら宝であることに気づかず他所に求め、 遠くへ求め彷徨っているのが我われ凡夫の 現実かも知れない。この世はつまらない、 今度生まれ来るときはもっといい環境の下に 生まれたいと願う人が多い。誰もが貧乏より 金持ちがいいと言うだろう。 |
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楽を夢見、あの世、来世の極楽行きの願望を抱くのは勝手ではあるが、何の 精進努力も無く極楽行きの切符を手に入れることは出来ない。「この世で極楽を 知らぬものが、あの世で極楽にいけるはずが無い」と言われるように、極楽は はるか遠くにあるのではなく、己が境地のなかにあるのだ。今の境地、境遇を 嫌い極楽へ逃れようとしても、己が心の中に極楽を築かない限り極楽は決して 見ることは出来ないだろう。その本来具有する仏性を自分自身が見得する ところに修行があり、更に進めよの精進が肝心なのである。 |
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