<今月の禅語>     〜朝日カルチャー「禅語教室」より〜


   始随芳草去 又逐落花回  (碧厳録)

     始めは芳草に随って去り また、落花を逐(お) うて回(かえ)




 「長沙遊山」という題で長沙景岑 (ちょうしゃけいしん)禅師と修行者であり、

また首座
(しゅそ)という僧堂での大衆の指導の立場にある弟子との問答の中での

長沙景岑禅師の言葉である。

 長沙、一日、遊山し帰って門首に到る。首座問う、和尚何れの処にか去来す。

 沙云く、遊山し来る。首座云く、何れの処にか到り来る。沙云く、始めは

 芳草に随って去り、又 落花を逐うて回る。・・・・・

 ある日、長沙禅師がぶらりと遊山して寺の門前まで帰って

きたところ、門前で清掃作務をしていた首座と出会った。

 この時を逃さず首座は即座に問答をしかける。「おや、

和尚今日は何処へお出かけでしたか?」長沙「いや、

ちょっとそこまで遊山してきたところだよ」とこたえるが、

首座はさらにしつこく「どのあたりまで行かれ、どのように

遊山してこられましたか?」と迫る。さすがに一山の大衆を

まとめる立場の首座だけあって「はぁ、さようですか」では

引き下がらない。この会話自体では老僧と若僧の単なるあり

きたりの会話としか見えないが、ここは禅匠と禅士の境涯を

かけた問答であり、われわれ一般の凡僧の日常会話ではない。

 私は先般、大学の同窓生の寺を訪ねて台湾へ出かけた。出かけるにあたり隣寺

の和尚に留「ちょっと台湾へ出かけるので何かあればよろしく!」と一声を

かけて留守中の用件を頼む。「はい、分かりました」となんら詮索はされない。

 どうせ台湾観光であろうという判断をされたことだろうが、檀徒はそうはいか

ない。「和尚何処へ行く」「いや、ちょっとそこまで!」「あぁ、また本山

ですか?」と訊ねられる。素直に台湾へといえばいいものを「はい、ちょっと」

と応えてしまったのがいけなかった。「今年もまた宗会なんですね。お役目

ご苦労様」と励まされたが、本当の宗会はまだ先きの日にちである。

 宗会とは所属宗派の取り決め財政運営を図る宗議会であり、たまたま私がその

福岡教区の議員のお役を頂き議会開催には本山への出仕をしなければならない

のだ。だから、もしその時の本山行きにこの檀徒に会えば何と応えればいいのか。

 とんだ藪問答である。これを「長沙遊山」の

問答の例えにしてはあまりにも次元が低すぎるが、

頓珍漢のところがまた禅問答の面白さである。

 長沙禅師の「遊山し来る」で済まないところが

首座禅者の求道心なのだろう。ここで言う遊山

とはぶらぶらする散歩、悠々自適の野山の散策

ぐらいの意味である。

 だが、禅者の問答の中での遊山は単なるぶらぶら散歩にとどまらない。

「遊山は何処まで、どのような遊山なのか」という首座の問いは、地域的何処

とか、物理的な何をしたとか、何を見たとか言うことでなく、長沙禅師の心境の

風景を問うたものである。長沙禅師とて首座の腹を読んで「始めは芳草に随って

去り、又 落花を逐うて回る」と何処に言ったとか、何をしたとも言わない。

 ただ、春の始めは萌え出す芳草を訪ね、春盛りの落花をのんびり眺めて遊戯

三昧
(ゆげざんまい)。なんで野暮なことを聞きなさるのか。これはこれ、花は

上野か吉野山だよ。富士の高嶺からの駿河の眺めも絶佳だったよとそんな心境を

あらわす。これは自然の中での風流風雅を楽しむさまにみえようが、この境地に

あっては必ずしも、野や山や川の自然の風光ばかりの遊山ではない。日常生活

での行住坐臥着衣喫飯そのものが、風流風雅を楽しむ遊山の境地なのである。





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