<今月の禅語>     〜朝日カルチャー「禅語教室」より〜


     春色無高下 ― 春色(しゅんしょく)高下〈こうげ〉無く
     花枝自短長 ― 花枝(かし)(おの)ずから短長(たんちょう)   

  〈普灯録〉




 諸行は無常にして時の流れは迅く、またたくまに3月は過ぎ去り今や季節は

春爛漫。桜の名所には人だかり、花を愛でるのか春の陽気に誘い出されるのか

知らないが、少々喧騒気味でも日本人の花に対する思いの厚いことは確か

である。花散ればまた若葉の葉桜もけっこう嬉しく、眼を楽しませてくれて、

心浮き立たせられる春の陽気は有難い。


 秀吉が催した豪華だったという醍醐の花見は有名だし、

現在は宮内庁が催す春の園遊会はわれわれ庶民とは無縁の

ものだが、ビニールシートを広げてのほか弁、デパ地下の

惣菜で盛り上がるサラリーマン諸子たちのささやかな

花見も同じ春色に酔いしれて春を謳歌する上においては

地位や立場の上下はなく規模の大小も無く、春陽は平等に

降り注ぎ自然の恵みをもたらしてくれる。

 花は金持ちの庭には特別に美しい色づけの花を咲かせは

しない。春陽春風は庶民の家であれ、、土手の桜あれ、

路傍の草木にも分け隔てはしない。

 
 しかし、花枝
(かし)(おの)ずから短長(たんちょう)ありで、陽ざしは同じ

ように降り注ぎ、万物に春の陽気を提供してくれるが、受ける花枝には長短あり、

高下あり、早咲き遅咲き、向き向きがあり、その陽ざしの受けかたには大きな

違いがあり一様ではない。

 それぞれに与えられた因縁の中で精一杯に

自己を表現して存在するだけである。

 そこにはなんらの差別も分け隔てはなくて

そのまま一味平等の世界の中で混在する中で

全体として完全なる仏の世界を構成する一員

としてすべてがある。

 人もまた同じである。長者長法身、短者短法身といわれるごとく、因縁起果に

違いはあれど、人は生まれながらにしてある器には大小、長短あれど、それぞれに

皆仏心を頂いていることである。そこには優劣、差別のない仏の世界、円満具足の

世界の中に生かされているのである。




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