<今月の禅語>     〜朝日カルチャー「禅語教室」より〜


  竹筧二三升野水 松窓七五片閑雲 (五灯会元)

       竹筧 (ちっけい) 二三升の野水 松窓七五片の閑雲




 竹筧とは長い竹で水を渡すトユのようなもの。二三升や七五片と言う数字は、

その数を言うのでなく、多くはないが事欠かないほどにいつもある言うことの

表現でとしての数である。山中に閑居しているゆえに人様にお見せするもの、

自慢するものは何もないけれど、ここには谷川より引いている筧をわたる水が

絶えることなくちょろちょろと流れて来るし、草庵の小さな窓からは、嶺を

長閑に白雲がいつも流れて見あきることがない。


 これでもう十分ではないか、このほかに何を求めようと

言うのか、という清貧簡素の生活を悠々として楽しむ心境を

味わう語である。
このような閑道人の無欲で何の執われも

なく淡々とした心境でありたいというあこがれをある面では

抱くが、有り余る物質文明の真っ只中にいる現実の自分の

環境を見るならば、所詮憧れでしかないようにも思えて

しまう。物にあふれ、今日明日の食うに困らぬ立場にいる

ことの幸せを感じながら、果たしてこれで本当に幸せなの

だろうかという不安をぬぐえない人も多い。

 欲は満たされればまた一つ、次から次へ欲は増して留まることを知らない。

知人の子がサラ金に手を出して、返済不能になっても止まらず、親の肩代わりを

受けながらもその欲は治まらず、親からも兄弟からも見離されて自己破産に

至ってしまって地獄の心境であるようだ。幸せとは物が豊かにあるから幸せ

にはなれない。貧乏とは物がない人のことではない、ほしいほしいといつも

満足できない心の貧しき人のことなのだ。


 法句経に「足ることを知るは第一の富なり」と

あるように足ることを知る者は、身は貧しくても

心は豊かであり、貪る者は身は豊かなれど心は

いつも満たされず心貧しいものである。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩をおもいだした。

 雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

 丈夫ナカラダヲモチ 慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラツテヰル

 一日ニ玄米四合ト  味噌ト少シノ野菜ヲタベ アラユルコトヲ ジブンヲカン

 ジヨウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ 野原ノ松ノ林ノ陰ノ

 小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ 東ニ病気ノコドモアレバ 行ツテ 看病シテヤリ

 西ニツカレタ母アレバ  行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ

 行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ 北ニケンクワヤソシヨウガアレバ

 ツマラナイカラヤメロトイヒ ヒデリノトキハナミダヲナガシ

 サムサノナツハオロオロアルキ ミンナニデクノボウトヨバレ  

 ホメラレモセズ  クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナリタイ

 この閑道人の心境は山中の庵で味わうことでは決してない。たとえ大都会の

中に住まいしていても心境においてはもう世間的物欲を離れてあってよし、

なくてまたよし、地位も名誉にもこだわらず超越し清貧簡素の生活を悠然と

していけてこそこの語が一層活きてくる。



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