<今月の禅語>     〜朝日カルチャー「禅語教室」より〜


    一以貫之(論語)  一を以って之を貫く




子日く、参(しん)や、吾が道、一を以って之を貫く。曾子曰く、唯(い)。

子出づ。門人問うて曰く、何の謂(い)ぞ。曾子曰く、夫子の道は忠恕のみ。



 「あるとき孔子が弟子の曾参に向かって「私は今までのながい人生を通して

の生き方においての根本は終始一貫して変わるものではなかった。」と言わ

れた。それを聞いて曾子は「唯」と応えただけであった。


 孔子はこの「唯」の言葉を聞いて黙って講義の席を出ら

れた。この時、同席の他の門人たちは二人の問答の意味を

理解できず、『師が、吾が道、一を以って之を貫く』と

言われ、あなたが『唯
(い)』と応えられたが、それは

どういうことなのですか?」と問うた。

曾子はこれに答えて「師は、吾が道、一を以って之を貫く

といわれたその道とは、思いやりと慈しみの心である忠恕

(真心)なのだ」と説明して聞かせた。

 師の孔子の生涯にわたる一切の言説、教えにおいて貫か

れた「一」とは単なる数字上の一ではなく、一切の一であり、

全身全霊のすべてであり、孔子が体得した真如の境地から

発せられる忠恕の道なのである

 この語出典は論語であるが、「一を以って之を貫く」と言う言葉は受け取り方

次第であり、終始一貫信念を貫くという意味にも解すれば、われわれ俗人の

生き方においての教訓として有難い語でもある。私は、大徳僧堂にあって修行の

身であったとき、座禅においては居眠りばかりで、一向に境地はすすまず、禅問

答における見解がとんとなく、参禅においては老師も我が無見解を察せられて、

老師の控える参禅の室内へ入る前に鈴を振られて、追い返された。


 何の問答もなくすごすご引き下がらされてくや

しい思いの時が続いた。それならばと頑固な私は

意地になり、室内の老師の前のあっても、鈴を

振られる前に自らけつまくって引き下がり老師

を困らせたことがあった。

 そんなあるとき老師は「一以貫之」の語を書かれた警策(座禅の時に背を叩き

励ましに使う棒)を下さった。老師のその真意は知らないが、我が信念を曲げず

生涯貫けとでもおっしゃられたのかと勝手に誤解をしたものである。

 禅者の多くは禅語録に親しみ、多くの公案を数えて禅境を得ようとするが、禅の

肝心要のところは座禅による悟りと言う一大事である。あれも此れも読み学んで

おかないと世間の人々を導くには恥をかくということもあって多聞博識を尊び

がちである。しかし、道元禅師は「広学博覧は限度があり、思いっきり学びを

止むべし」と言い「仏祖の言語すらあれこれと好んで学ぶべからず。


 ただ一つのことさえ専らにすることは、

鈍根劣器の者は適わないのだからあれこれ

多般にわたっても道は得られない」と言わ

れているように、禅者の肝心要の一大事を

疎かにしてはいけないことを戒められている。

 人生わずか七十年か八十年、いずれは死んでゆかねばならないこの命である。

なんだかんだと首を突っ込んでやっては見てもたかが知れたものである。

むしろよそ見することなく、無駄ごとを切り捨て、ただひたすらに一に徹し

「一を以って之を貫く」姿勢が今の時代、見直されるべきではなかろうか。

 



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