<今月の禅語>


   行雲流水 (こううんりゅうすい)  <普勧坐禅儀>





 雲は悠然として浮かび、しかもとどまることなく、水はまた絶えることなく

さらさらとして流れて、また一処にとどまることがない。

この無心にして無碍自在のありようが禅の修行にもあい通じることから、この

語を禅者は好んで用いた。今も禅の修行僧を「雲水
(うんすい) 」と云うのも雲が

悠々と大空を行く如く、また流れる水の如く一処にとどまらず師をたずね修行の

行脚したことから名づけられたことばである。

 「行雲流水」は自然現象である。空を行く雲、川を流れる

水は一時も同じ状態ではない。雲の表情は一瞬一瞬ごとに

変わり、湧きては消え、消えてはまた生ずであり、また

流れる水も常に変化して様々な表情があるように、この行雲

流水の語は世の無常を表わした語でもある。

それはそのままわれわれの人生にも通じることである。

雲にはやさしい風ばかりではない。吹きちぎり吹き飛ばす

風もある。水の流れにも瀬があり曲がりくねる淵があり一様な

流ればかりではない。長い人生もまた然りである。

人生、順風満帆ばかりなんてありえない。どんなに障害があり、

喜怒哀楽様々な出来事の連続の中にあっても、常に心は

その一処にとどまらず、執着せず、雲の如く無心にして淡々と、さわやかに生きる

ところにこの「行雲流水」の語が生きる。余談であるが、墨染めの衣にわらじ

履き、網代笠を被った雲水の姿が自然の風光の中にあれば、ひとつの風景画に

見えるかもしれない。だが、雲水である当人は如何がな心境であろうか。


 実は私も曾っては雲水として一人、托鉢行脚で

放浪しまた四国八十八ケ所霊場を廻ったことがある。

悠々などといった心境でいられることはなかった。

 門づけの行乞では目障りとばかりに冷たく追い

立てられることもある。今夜の泊まるところの

ないのはたまらく侘しかった。孤独感もつのる。

行脚には晴ればかりではない。雨の日、風の日も多い。そして厳冬の中、雪道を

泣きべそをかきたいような行脚は辛かった。だが、また逆に、多くの人々の

ご接待があり、真心から親切をうけた。いまではそのどれも懐かしく楽しい

思い出であり人生の宝になっている。今思う「行雲流水」とはそんな人生に

おきる雨風、嵐どんな苦楽も嫌悪、取捨せず、ありのままに受け入れて人生の

肥やしとしていくおおらかな心ではなかろうか。



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