<今月の禅語>


   自浄其意(じじょうごい) <七仏通戒偈>

            
自ら其の意(こころ)を浄くせよ




 禅門で日常に読誦するお経の一つに「七仏通戒偈」と云う短いお経がある。

諸悪莫作(しょあくまくさ)・・・・諸々(もろもろ)の悪を作(な)すこと莫(なか)

衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)・・・衆(もろもろ)の善を奉行し

自浄其意(じじょうごい)・・・・・自ら其(そ)の意(こころ)を浄くせよ

是諸仏教(ぜしょぶっきょう)・・・是れ諸仏の教えなり

七仏とはお釈迦さま以前の仏として

六 仏・・
毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)

     毘舎浮仏
(びしゃふぶつ)、拘留孫仏(くるそんぶつ)

     拘那含牟尼仏
(くながむにぶつ)、迦葉仏(かしょうぶつ)

のご存在があり、その六仏に釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)を含めて

過去七仏という。この七仏を通じて変わることのない戒めとして

あるのが「七仏通戒偈」なのである。その意味は「悪いことを

するな、善きことをしなさい、そして意
(こころ)をきれいにする

こと。是れが諸
(もろもろ)の仏の教えである」といたって簡単な

内容でしかない。だが、その実践となると容易ではない。

 中国の詩人で有名な白楽天は若いとき禅道を求め、刑州の山林で鳥巣(ちょうか)

禅師と呼ばれ樹の上で仙人のような生活をする道林和尚を訪ねた。早速、道林に

「仏教の根本の教えとは何か」と質問した。道林和尚は即座に「諸悪莫作、衆善

奉行」即ち、悪いことをするな、善きことをせよと答えたのだった。

あまりにも平凡な答えに白楽天はあきれて「そんなことは三歳の童子でも知って

いることではありませんか、馬鹿にしないでください」反発したところ「三歳の

童子でも知っているであろうが、八十の老人でさえ行うことは難し」と平然と

答えたという。

 その道林和尚の真意を知った白楽天はすっかり

参ってしまい、道林和尚のもとで修行したという。

つまり、仏の教えとは悪い行いをなさず、善い

行いをして心浄らかにして悟りを開き、仏

(真理)の世界にいたるための道であり、是れが

仏教なのだ。

 ところが、仏教で言う、善いこと悪いこととは単に法律に触れるとか道徳に

反するということだけではない。仏教で言う悪とは悪業のことで、身・口・意の

三業
(さんごう)に代表される。身によって造られる悪しき行為(身業)として

 @ 殺生(せっしょう)=生き物をみだりに殺す
 A 偸盗(ちゅうとう)=他人のものを盗む
 B 邪淫(じゃいん)=邪な性交がある。言葉による悪しき行為(口業)として
 C 悪口(あっく)=悪口をいい、人をののしる
 D 両舌(りょうぜつ)=二枚舌を使い、人をあざむく
 E 綺語(きご)=言葉を飾り駄言を弄する
 F 妄語(もうご)=嘘、偽りをいうがあり、

次に意
(こころ)による悪しき行為(意業)に

 G 慳貪(けんどん)=むさぼりのこころ
 H 瞋恚(しんに)=怒りのこころ
 I 邪見(じゃけん)=よこしまな考え、想念がある。

以上、身と口と意のそれぞれの業を合わせて十悪というのだが、人はよく不運な

目にあったり、不幸が続くと「私は何も悪いことはしていないのにどうして・・

・・」と云う愚痴や不平を並べ嘆くことがある。果たして身口意の三業に照らし

「私は何も悪いことをしていない」と云いきれるだろうか。私たちは過去世より

知らず知らずに造ってきた諸々の悪業を懺悔すると共に、新たに悪業を重ねない

こと(諸悪莫作)であり、そのためにはより多くの善行功徳を積む(衆善奉行)

ことである。そのためにはやはり自らの信仰を深め仏の力を頂きながら六根

(眼・耳・鼻・舌・身・意)の清浄をはかる(自浄其意)自からの精進が

大事なのだ。



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