<今月の禅語>


    鳥倦飛而知還 〈陶淵明の帰去来の辞〉

       鳥飛ぶに倦 (う) んで還 (かえる) を知る




策扶老以流憩  策〈つえ〉つきて老を扶(たすけ)て流憩(りゅうけい)

時矯首而游観  時に首
(こうべ)を矯(あ)て游観(ゆうかん)

雲無心而出岫  雲無心にして岫を出づ

鳥倦飛而知還  鳥飛ぶに倦(う)んで還(かえる)を知る

 過般、当寺のホームページを見たという方からこの「鳥倦

飛而知還」の語の質問を受けて答えたものだが、しばしば、

禅語の解釈や読み方などの問い合わせがある。それだけ、

このページへの訪問を受けていることを示す意味ではうれ

しいことだ。だが、ただ分からないから教えろと安易に解釈

を請われても、うれしくないことがある。自分も知らない

語であったり、無礼だと感じるのは質問者が何のために聞き

たいのかという理由も述べずに聞かれることだ。自分で辞書

なり図書館なりで調べたのかと逆に問いたいときもある。

 しかし、この方はちゃんと調べた上でのことでの質問だったので、さらに私も

資料を開いて、お答えしたもので、印象に残る禅語となっている。この句は

「雲無心而出岫」の対句とされているものである。雲無心而出岫の語は以前に

取り上げているが、あらためて味わうにはちょうどいい季節である。雲は年中

見られるものだが、なぜか夏雲に清涼感を求めたくなるものである。

 雲はゆうゆうとして谷あいより湧き出でて悠々と

して流れる。流れようという意識無く、ただ大空に

静かに流れ飛ぶ。自由自在なる無心の境涯。岫とは

山の洞穴、谷あいの意。無心とは、眠りこけた

無意識状態ではなく、はっきりとした意識の

覚醒がありながら、捉われ計らいの無く、融通

無碍、無我寂静の心境をいう。

 またこれと同じように、鳥は飛び疲れ飽きれば自ずから我が巣へ還ることを

知る。そこには何の執われも、計らいもない。悟りを開いた無心にして無碍自在

な心境にたとえて禅者この語を用いる。雲はもとより無心にして悠々、鳥もまた

無心にして任運自在、何ら作為のない大自然の雄大な動きにたとえた禅者の無心

無我の心境を表す語である。ただ、この無心とは、眠り込んだ状態で何も考え

ないとか、無意識状態でない。禅で言う無心、無我とは最もはっきりした意識の

中での無なのである。むしろ意識の根源的なものであるといえよう。


 梅雨晴れ間のある日、承福寺への筑前西国三十三

番霊場をめぐる千人お遍路の人たちを見守るかの

ように一羽のトンビがぐるり飛び舞うて、やがて

倦んで、何処へか還って言ったが、この辺の消息を

うたったのかもしれない。

 余談だが、そのときふと思い出したことがある。一昨年のこと、参詣者が一羽

のトンビを持ち込んできた。病気なのか元気なく草むらにうずくまり動けない

でいたらしい。そのままでは野犬にやられてしまうのでかわいそうだからと

いうからだ。トビは日本の野鳥の中では大型である。見た目からして重そうな

感じがするが、手に受けてびっくりした。ふっと浮くような軽さなのだ。

よほど餌にありついてないということを抜きにしても軽い。

そうか、だから翼を動かさなくても広げ羽だけで悠然と空に浮かんでおれる

のかと納得したものだった。結局そのトンビは近くの愛鳥家に頼んで、助けて

もらい元気回復の後、野に放たれた。寺の近くでトンビを見るたびにその時の

トビなんだと勝手に思ってしまう。



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