<今月の禅語>


   惺々著 (せいせいじゃく)    (無門関)



無門関の中に瑞巌主人公という公案がある。

瑞巌の彦和尚、毎日自ら主人公と喚
(よ) び、復た自ら応諾す。乃ち (すなわち)

云く、「惺々著、 (だく) 。他時 (たじ) 異日 (いじつ) 、人の瞞を受くること

莫れ、
(だくだく)
主人公とは本心本性の自己、真実の自己、惺とは惺悟の

語があるように悟るとか心が静かなさまを言う。

著は語意の強調する助辞。は「ハイ」の返事。

瑞巌師彦禅師は毎日自分で自分に「主人公、即ち師彦和尚

よと自らに呼びかけ、自分で―ハイと返事をして惺々著

(しっかりと目覚め、本来の面目を保っているか。)人を

あざむくことも、あざむかれることのないよう、真実の

自己の状態でいるか。 ―ハイハイ」と自問したと言う。

私たちはというより私は、社会の中でいつもさまざまな情報に振り回されたり、

自らの煩悩妄想に惑わされて己を失うことが多いのが現実だ。大徳寺の一休

和尚は「正月や冥土の旅の一里塚 目出度くもあり目出度くもなし」という狂歌

を詠んでいる。これは単なるざれ歌ではなく、己れを見失い、呆けていていいの

だろうか?という一休和尚の警告でもある。

太平の世の今、のんびりお屠蘇気分になり、

TVで箱根駅伝を楽しみ、高校サッカーに

見とれているのも正月の過ごし方の一つでは

あるが、そこを一休和尚はその昔、京の街中を

竹ざおに髑髏
(どくろ)首をかざして「ご用心、

ご用心」と叫びながら練り歩いたという。

    一休和尚の木像

風狂な一休和尚らしさがあるが、正月の賑わいの中、我を忘れ、ほろ酔、己を

失った人々への警鐘を鳴らすためのデモストレーションだったのだろう。

まさに主人公たりえてるか―ハイ。しっかり己れを持して惺惺著たりえて

るか。 。とありたいものである。



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