<今月の禅語>

  江碧鳥逾白 山青花慾然  (唐詩選・杜甫)

    江 (こう) は碧 (みどり) にして鳥は逾 (いよいよ) 白く
    山は青く花は然
(も) えんと慾 (ほっ)





弱々しかった若葉はすっかり緑濃くなり、サラサラと葉擦れの音さえ奏でる

新緑のこの時期、散歩の道すがらの小さな池の水面にツバメが渡り、小鴨が

たわむれて水面に映る木々の森を揺らすのどかな情景に心地よさをおぼえる。

だが、こんなわが近郊のちまちまとした光景の何十倍もの

スケールかもしれない中国四川省・かつては三国志・蜀の

首都、成都の都を流れる大河・錦江の水面は碧玉(エメラ

ルド)のように澄み切っていて、白鳥は悠然と浮かび、

あるいは飛びまわる碧と白のコントラストは自然が織り

成したパノラマの世界である。

今の成都からは想像も出来ない詩情の世界である。

周りの山々の青山に花炎樹の花がまた見事なコントラストを

なして眼に鮮やか写る。なんともいえない雄大な風景が

浮かんでくる。

この光景を脳裏に描きださせる杜甫の詩の韻律の見事さに感心させられる。

だが、このすばらしい光景そのものは紛れも無く大宇宙の生命の発露の姿であり、

仏の世界の顕現なのである。

やはり詩人の蘇東坡も「渓声すなわち広長舌 (こうちょうぜつ) 」と詠っているように、

自然の風光そのものが、仏の世界であり谷川の流れのひびきも優れた仏の説法その

ものに違いないのである。野に山に仏の教えは満ち満ちているのである。

ただ、凡夫の私はこれを仏の教えとは感じ取れないで来てしまっていただけなのだ。

仏教はお釈迦様が説かれた教えである。

しかし、その教えの本質、天地宇宙の真理、

天地自然の法則は、お釈迦様のご出現になら

れる前より厳然としてあったはずである。

その真理、法則に気づき、自ら体得し、法と

して体系立て理論的に解説下さり、無明に

あえぎ迷い彷徨う万人に救いの道を説き示し



杜 甫 草 堂
下さったおかげで、今日私たちは仏道にかなう生き方において安心を得る希望を

見出せていることが有難い。

こんな受け止め方でこの語を味わうと、裏山より聴こえるさまざまの鳥の声も、遠く

から響いてくる整地工事場のユンボのうなりの音も自然の中に生きる人間という動物

の生活の息づかいとして調和させてしまえば、心地よく耳には障り無いものである。


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