<今月の禅語> |
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人は好事あればその好事に執着しがちなものである。そして又さらにより以上、 好事多きを求めてしまう。禅者はその執着の心、求める心を嫌う。 好悪の分別を捨て、好事は好事に任せ、又否定もせず、求めもせず捨てることも 無くあるがままに受け止める無為自然、無心の境地を尊んだ言葉である。 |
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好事とは文字通り好き事、善い事、目出度いことの意味で あり誰もが望むことである。良い事は無いよりあった方が 好ましいと思うのが普通の人の感覚である。しかし、好事が あればその好事に執着し、もっともっとの求める心もおき やすい。逆に悪しき事や凶事があれば、悪しきを嫌い、心を 曇らし沈んでしまうこともある。禅を修するものはやはり 世間的であってはならない。好悪、吉凶の分別をなして好を 取り、悪を捨てる等による取捨憎愛の心から生ずる煩悩の因 としてはならないのだ。 |
もちろん、好事を否定し排斥するものではない、悪しきこともまた同じで好悪の 分別を捨て、好事も悪しき事もあるがままに受け止めていく、その無心の境地より 生れる判断こそ尊いのである。 |
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俗言の「悪銭身につかず」ではないが、安易に手に 入れた銭は安易に使われてしまうばかり身を持ち崩す こともある。宝くじに当たりで大金を手にしたばかり の人の妬みや、むしんの強要に悩まされたという話を 聞いたが、まさに安易な好事は無きにしかずである。 一度味わった贅沢な生活は忘れがたく、またサラ金に 手を出してまで好事を得たいと思うものらしい。 |
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もちろん、これは禅語としての「好事無きにしかず」の解釈としては当たら ないが、自分勝手な好事を好み、執着し、さらに欲望をつのらせる我々凡夫への 格言としての「好事無きにしかず」であってもよいだろう。 |