<今月の禅語>
春在枝頭已十分(聯珠詩格)この語は中国・宋の詩人、載益の「春を探るの詩」の一節である。 終日尋春不見春 終日春を尋ねて春を見ず 杖藜踏破幾重雲 藜(あかざ)の杖をつき踏破す幾重の雲 帰来試把梅梢看 帰り来足りて試みに梅梢を把りて看れば 春在枝頭已十分 春は枝頭に在って已に十分 |
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朝の来ない夜はない如く、春の来ない冬はない。 さしもの厳冬の凍てもやがては緩む。 長い冬も、もうそろそろ終わろうとするころだ。 三寒四温と言うにはまだ早いかもしれないが、冬陽がなにやら 暖かさを増してきた。何だかうずうずしてじっと待っておれず、 どこかに春の訪れはないかと春を迎えに出かけたくなるのも この時節だ。さる1月20日つい冬晴れの陽気誘い出されて、 門前の田の畦に踏み入ってみた。 毎年この頃には土筆ン坊が顔を出すのを記憶している。 |
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しかし、土筆はなかったが、蕗のとうが出ていた。あぁ、やっぱり春はもうここに あつたではないかと心ときめく。春はどこから来たものではない。きっとここで 眠っていたに違いないと思う。私はもしやと、急ぎ、裏庭へ廻ってみた。 あった、あった、確かに梅の花が小枝に幾つもの花を咲かせているではないか。 紛れもなく、春はもうすでにここまで来ているではないかとさけびたくなった。 そんな心境を詩に託して載益は詠ったのだろう。 |
詩の略意は、 春はどこに来ているのだろうかと、一日中春を尋ね歩いてみたがどこにも見出せ なかった。 |
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藜の茎で作った粗末な杖をついてあちこち 捜し歩き、足を引きずりながら戻ってきた。 そこでふと我が家の庭の老木の梅の小枝を じっと見てみると、なんと梅の花はぽっ ぽっと花をさかせ香りを放つていた。 探していた春は已に自宅の庭にあったのだ。 |
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この句の禅語としての味わいとしては「人は、幸せとか悟りと言う喜びを自分の心の 外側へに求めてしまいがちだが、これは誤りである。 悟りとか教えの喜びは外に向かい、遠くに求めて得られるものではない。 春がくれば自ずから花開くように、修行においてその時節さえ至れば、内在の佛性は 自ずと顕現する」という解釈になろう。 |