<今月の禅語>
雨滴聲(うてきせい)(碧巌録)
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ある雨の日のこと、中国唐の時代 、寺の軒先から雨だれの音が しきりに聞こえる。鏡清禅師はおもむろに「門外(もんげ)是れ恁麼 (いんも)の声ぞ」〜〜何やら外で騒がしくぴちゃぴちゃと言う音が しているが、あれは一体何の音かね?と一人の雲水(修行僧)に 訊ねました。 僧答えて曰く「雨滴聲(うてきせい)」〜〜雨だれの音です。〜〜 鏡清禅師はいささかがっかりして「衆生顛倒(てんとう)して己に迷うて 物を遂う(おう)」と。〜〜人は誰でも心の中が混乱していると、真実の 自分を見失って、外の物ばかりを追いかけるものだ〜〜 と言う嘆きの声。 |
鏡清禅師は、雨だれの音であることを百も承知で「あれは一体何の音かね?」と訊ねられたはずである。 一般の人ならいざ知らず、少なからず参禅修行を志す雲水が、鏡清禅師の問いかけの意図を汲めず、 馬鹿正直に「はい、あれは雨だれの音です」と言う答えでは失格である。 詩人、蘇東坡の「溪聲(けいせい)便(すなはち)是れ広長舌(こうちょうぜつ)」〜谷川の清流の音も是、 すべて仏の雄弁な説法そのものである〜と言っているが、「雨滴聲」も広長舌《広くて長い舌は仏の 三十二の瑞相の一つで雄弁を表す》そのものなのである。正に仏陀の説法は心耳に浄しである。 道元禅師は「聞くままに また心無き身にしあれば己なりけり軒の玉水」と歌われている。一切の顛倒 妄想を断ちきり、自他対立のない心境。無心の世界。 |