<6月の禅語> 「東山水上行」    東山(とうざん)水上(すいじょう)を行く〔雲門広録〕 

 

 一人の修行僧が「三世の諸仏の悟りの境地とは如何んのものか」と

言う問いの対して雲門文堰(ぶんえん)禅師(864〜948)は「東山水

上を行く」と答えた。東山とは湖北省にある馮茂山の別名。

 山と言うのは泰然として動かざるものである。その絶対不動である

べき山が動き、しかも「川の水面を流れて行ってしまったぞ」と言うのは、

およそありえない事であり、常識や、理屈では考えられないことである。 

それは私どもは常に、一般的に抱く常識的、相対的認識の世界にあって、

動とか静、善とか悪、生とか死、苦とか楽などの二相に分別しているから、

その分別妄想を起こし、執着し、迷いあるいは苦しみ、業を重ねているもの

である。そういう二元対立、ニ相分別の観念を打ち砕き、私どもの常の概念

とする常識や理屈の殻を突き破らしめる禅匠としての雲門禅師の境涯が

伺える。

 

是非、善悪、愛憎、動静の分別を起こさず、山と静とを対比せず、山は山そのもの姿を見、水は水の姿

そのものを見れば、動、不動の分別二相の発想は起こらない。あるいは自らが山になりきり、また水その

ものになりきっての、純粋認識である。そこに諸仏の無碍自在の境地がある。

ふん〜??。所で、私はいつも時間に流され、世の激流に流されっぱなしでアップ、アップ!!

戻る