こころの紋様 -ミニ説教-


〜遺骸に、遺骨に執心するなかれ〜

- 死に行く者の心得 A -


  人が死に行くということは悲しい現実ではありますが、その現実も実は自然の営みの一つであり、

避け得ない事実であることは誰もが知っていることでしょう。しかし、人間感情的にはその事実さえ

素直に受け入れられないで悲しみくれてしまったり、遺骸に対する執着を持ってしまって、その悩みを

つのらせる人も少なくありません。
  生死を自然の営みの姿としてみるならば、遺体とは自らが

脱ぎ捨てた不要の衣服のようなものであり、再びその服を着る

ことはありません。生まれ変わり死に変わりゆく輪廻転生の

過程における霊体は死して後に、いつかまた再び次の生縁を

得て新しい肉体に宿ってこの世に生まれ転生してくるもの

なのです。その脱ぎ捨てた衣服にしがみつき執心することは

迷いであり、生縁を得がたくする輪廻の障りとなることだと

いわれます。

 遺骨についてのあとの祀りかたや、処置について海がいい、山がいい、空からがいいという自然葬派や、

家族にいつも見守れていたいから墓がいいとか、さまざまな相談に与ることは住職としてよくあることです。

様々な考え、家庭環境など多様化した今、こうあるべきだ、これが一番いいという絶対的なことはありません。

 しかし、要は自分の死後、抜け殻とも言える遺骸がどのように

処置され、遺骨がどのように祀られようとも、その本体たる霊魂が

迷い彷徨うことなく、往生を遂げ御仏への救いの道をめざして

導かれていくかどうかが大切なことであらねばならないと思い

ます。それぞれが生前に正しく信仰の道に励み、死後にも

通じる善行功徳を積み、自らの精進を通して自らの御霊の浄化を

目指していく信仰修行こそ大切なことかと存じます。

 その信仰の功徳力が神秘世界を通して故人、先祖への追善供養となって及んでいくのです。 

一人の真の信心は六親眷属をへ及んでいくとされるのはこのことなのです。信仰とは病気になって信仰

すれば治ります、救われますと言うような安直な教えではなく、信仰によって神仏の教えを頂気人として

あるべき生き方を学び、むしろ病気にならない摂生の智慧を磨き高めることが大事なことであります。

 また悩んでも、苦しみ迷わない不動の心を我が心とするとか、なぜ病み、どうすれば、直せるのかの

知恵をみがき、頂くところに真の信仰があり教えがあるのではないでしょうか。



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