こころの紋様 -ミニ説教-


〜何気ない陰徳の行〜

極楽往生の道


 ある年の本山参りの時でした。京都駅から貸し切りバスで本山・大徳寺へ向かう時のことです。

人数と予算の関係で三人だけが補助席を使わなければなりませんでした。乗り込むのに遅れ補助席に

座ることになったひとりの中年のご婦人が「同じ金を払っているのに、なんで私たちだけが補助席の硬い

座席に座らされるのか」とぶつぶつと不平を言い出したのです。なるほど、それはもっともな話、ちょっと

用足しで遅れただけで、皆がゆったりとしたリクライニングシートなのに、自分だけがすわり心地の悪い

補助椅子に座らされるのだから、公平ならざるその悔しさは分かります。

 そこで「奥さん!悪かったね。ここにお座りなさい」

といって替わってやりました。「いえ、冗談ですよ!」

と照れくさそうにされていましたが、まだ若いつもり、

元気な私が補助席に最初から座るのが当然だった

かも知れません。しかし私の他にあと二人の方が

補助席にかけていましたので「あなたたち二人だけ

補助席で悪いけど我慢してくださいね」と詫びた

ところ、参拝団の中でも最年長に近い老夫婦が

「いえ! 自分たちだからよかったのです。

 誰かが〈補助席に〉座らなければならんのですから・・・・」 と、どうやらこの方は皆さんにいい席を譲られ、

自らすすんで硬い補助席を選ばれたみたいでした。謙譲の美徳というものでしょうか。「人の嫌がること、

つらいことは自分たちがう受けてよかった。他の人だったら気の毒だ」という気持ちからの行為だったよう

です。たかが座席の譲り合いの話に過ぎませんが、この何気ない老夫婦の行動、言葉にすがすがしさを

覚えるとともに、生き方としての大きな事を学ばせていただいたように思います。口に出して言われたわけ

でもなく、初めっから自分たちは補助席に座り「皆さんはどうぞよいお席にどうぞ!」と人知れず、目立たず

何気なくの善行はまさに、仏教者としての布施の行であり功徳を積む下座行であり、陰徳の行の実践者

なのだと思いました。

 昔、中国に趙州和尚といわれる偉い和尚がいました。

ある日、門前の老婆がやってきて「和尚さま、昔から

女は罪深く極楽往生できないといわれているよう

ですが、この女の私でも極楽へ往生できる方法は

ないものでしょうか?」と訊ねました。和尚は「この婆々

一人地獄へ、他の一切の人々は極楽へ行くように」

といわれたと言います。

 非道な和尚ではないかと思いますが、実は和尚の真意は「自分だけ極楽往生を願うのでなく、自分は

たとえ地獄へ落ちようとも、多くの人たちの極楽往生を願うことこそ、御仏の心であり、自らの極楽往きを

願わなくてもその御仏の心をたいす行為こそ、仏、菩薩の加護があり極楽往生の道なのだということを

趙州和尚は言われたのでしょう。かの老夫婦の行為とて願わずして極楽往生の実践行だったのでは

ないかと思います。



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