こころの紋様 -ミニ説教-


〜 知らずに造る悪業〜

―貪り・怒り・愚かさによる―



 人はよく不運な目にあったり不幸事が続くと「私は何も悪いことをしていないのに、どうして・・・・」といい、

愚痴を並べ不平を言い、嘆くことがあります。しかし、果たして本当に「私は何も悪いことをしていな」いと

言い切れるでしょうか。承福寺で皆さんとともに唱えるお経のなかに「懺悔文」があります。


我昔所造諸悪業 (ガシャクショゾウ ショアクゴウ)・・・わが昔より造れるもろもろの悪業は

皆由無始貪瞋痴 (カイユウムシ トンジンチ)・・・皆、始めのない自分の生まれる以前、前世、前々世のその前の

                      昔から持ってきた貪りの心と瞋りと無知で愚かな心によるものである。

従身口意之所生 (ジュウシンクイ シシュショウ)・・・それは身体の過ちの行い、口からでる過ちの言葉、邪まな

                         意による過ちによることである。

一切我今皆懺悔 (イッサイガコン カイサンゲ)・・・その一切の悪業を今ここに懺悔したてまつる。

 私たちは今、肉体を待って生きているこの現代の御世に生きているだけ

ではなく、人は皆無始以来の、親も生まれぬ前世、前々、いやそのずっと

前の前からの“魂”を引きついで生きていることを知らねばなりません。

輪廻転生の言葉があるごとく、人は生まれ変わり死に流転生死の中の

一コマが現実のこの世の存在に過ぎないのです。私はこの世で何も悪い

ことをしていないと思っても、実は法律や道徳に触れる悪事はしてはいない

だけであって、仏教で言うところの悪業も重ねていないといい切れるでしょうか。

 悪業とは身・口・意(しん・く・い)の三業に代表されます。

それは身体によって造られる悪しき行為 身業としての 

   @殺生(ものの命をむやみに奪う) A偸盗(他人のものを盗む)  

   B邪淫(邪な性関係をもつこと)
 があげられている。

さらに口による言葉としての悪業とは 

   C悪口(人の悪る口を言い、人をののしる ) D両舌(二枚舌をうかう) 

   E綺語(言葉を飾りを駄言弄する) F妄語偽りを言う。


次に意による悪しき業として 

   G慳貪(むさぼりの心) H瞋恚(怒りの心) I邪見(邪しまな考え) があります。

以上身と口と意のそれぞれの業をあわせて十悪といいますが、この十悪業のどれひとつとして

行っていないと言い切れる人がいるでしょうか。

 ある男性は親しい友人にたのまれて相当額の金銭を貸して

やることになりました。ところが返済の期限が過ぎても返して

もらえず、知らん振りの様子にいささか腹立ち、催促の電話を

入れたところ、無いものは返せないと言われけんか状態から

お互いに気まずい関係になってしまいました。その上その友人

からは却って悪口雑言を浴びせられ、逆恨みを状態です。

 せっかくの親切があだになり逆恨みされようとは思いもよらぬことで、憤懣やるかたなしで、怒りの心は

起きる、愚痴は出る、ついつい悪口も出る、貸した金惜しさの貪りの心まで起きてしまいました。

友人の窮乏を憐れんで行った折角の親切からの善行だったのに、どういうわけか、たった一つの事柄で

五つの悪業を犯してしまい、また相手に対しても知らず知らずに同様の悪業を起こさせてしまっているの

ですから恐ろしいことだと思います。

 だからこそ私たちは過去世より知らず知らずに造って来た諸々の悪業を懺悔すると共に、さらに新たな

悪業を造らない生き方をし、より善行功徳を積んでい仏に誓い、精進努力の信仰に励んでいかなければ

ならないということが言えるのです。



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