こころの紋様 -ミニ説教-


〜 寺は先祖供養代行業者か 〜

―供養することの意義―



 受験シーズンのあるとき「受験生のあなたに代わって大宰府天満宮に参拝し、祈願札をお届けします」

という神社参拝の代行業者の新聞広告を眼にしたことがありました。昔から代参という言葉があるように、

伊勢参りや熊野参りなど講の代表者などが町内のみんなの代わりにお参りし祈願を受けて、そのお札を

皆んなに届ける習慣は少なくなっていると思いますが皆無ではないようです。

 ところが、その代参は神社ばかりでなく、最近お墓参り

の代行業者があって繁盛していると聞きました。

「遠方の貴家に代わって墓参りをいたし、お掃除、お花

取替え、さらに線香を手向け、さらに読経も致します」と

いい、依頼主には後日、参拝の前と参拝の後がわかる

ように清掃を終え、新しい花が立てられた証拠写真を

送ってくれるというのです。

お墓参りの代行を頼むのは、無縁墓のように荒れ放題にしておくよりましということなのでしょうか。

このことに異議を唱え、否定するものではありませんが、いささかわびしさを禁じ得ません。

それを同じように私もわびしさを感じることがしばしばあります。

 それは「母の三回忌です。ご回向を願います」といった一文と、同封された何がしかの現金が送られてくる

ときです。郷里を離れ、遠方であるゆえに菩提寺での参詣がかなわないといった事情があり、やむをえない

面は理解できても、何のことは無い、坊さんは先祖供養の代行業者と間違われているかのような具合なの

です。寺院の中にはには霊園、納骨堂を売り、水子供養が生業のようになっている傾向からすれば、先祖

供養代行業者と間違えられても仕方が無いのかもしれません。

  先祖を敬い、追善供養をしたり、故人を偲ぶということは、人として

うるわしい行為であり、なんら否定するものではありません。

しかし、その供養するとは、「故人や先祖の年回をしないと先祖の

バチや崇りがある」などいう怖れや、災いを避けるという気持ちからの

法要の依頼である場合も少なくありません。それは義務的であり、

形式的であり真の供養とはい言い難い気がします。先祖や故人への

真の回向や供養とはバチやたたりをさけるためでもなく、あるいは

何らかの利益をいただくためでもありません。

自分の追善の祈りを通して、故人や先祖の御霊の安らかでよりよい往生を願っての追福のためであります。

また、故人を偲び先祖をたたえ、先祖あってこそ今あるわが幸せを感謝し、その喜びを近親、縁者と共に

することに意義があるのです。

 何より大切なのは、供養を頼む皆さんが心から御仏に礼拝する心と日々の精進の誓いが御仏の意に

かない、その信心の功徳が、故人や先祖への追福となって及ぼされていくものなのです。

ただ、お坊さんにお経を上げてもらったとか、もらわなかったという問題ではないのです。

お寺やお坊さんは決して先祖供養の代行業者ではありません。確かに死者儀礼の執行は、現在寺院の

果たす社会的役割のひとつであるという現実はありますが、それがすべてではないことはいうまでも

ありません。寺院とは本尊様を通して仏の教えを学び、自ら信仰を培い、自らの境地を高めていく信心の

場であり、修行の場であります。そして私ども僧侶は仏の教えを伝え導く先達者でなければならないの

だと、わたしは自らに戒めています。



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