こころの紋様 -ミニ説教-


〜 心得違いの信心 〜

―みほとけはその心を見る―



 熱心な信心家の老婦人がいました。そのご婦人は健康のためと趣味と実益を兼ねて家庭菜園で、花や

野菜を作り、我が家の仏壇にはもちろん、お寺に供えたり、ご近所へもおすそ分けをされて喜んでもらって

いました。ところが嫁に「野菜や花は畑にあるから使っておくれ」といっているにもかかわらず、お嫁さんは

いつも勤め帰りにマーケットから買ってきて、畑のものを使おうとしません。泥を落としたり洗うのが嫌なの

かなと思い、わざわざ洗って置いていても、やはり買ってくるのです。折角の好意も嫁には通じないと、

ポロリと愚痴をもらされました。
 注意すれば、角が立ちお互いに気まずくなるから

自分さえ黙って我慢さえすればいいのだ、自分は信仰

をしているのだから・・・というわけです。でもこれじゃ、

まるでお嫁さんが悪者で、私は親切で好意を尽くす

善人であり、わがままな嫁に対するよき理解者ある

かのような言い方で、他人の同情を買おうという気持ち

も込められているようにも聞こえます。

そして「自分さえ一所懸命に信心に励ん出たら、神様も仏様もちゃんと見ていてくださるし、わかってくださる

のだ」という確信というより、そう信じたいという願いがあるようでした。

 そのご婦人は「善い行いには善い報いがあり、悪いことをすれば悪い結果を招く」という善因善果、悪因

悪果の因縁の法の理を信じてのことでした。しかし、その善が果たして正しく評価される善なのかという

ことが大事なことなのです。かって「小さな親切、大きなお節介」と揶揄する言葉がありました。

自分が人のため、相手のために善いことだ、ためになると思ってやったことでも、それが相手に対しては失礼

であったり、お節介や気や、迷惑であったりする場合もあります。親切の押しうりも却って迷惑や、自尊心を

傷つけ怒りを買う事だって少なくありません。仏教の善行、善業とは自分が善いと思うことや自分に都合の

よいことではないはずです。

 これだけ善いことをやってきたからそれ相応の功徳がある

だろうとか、こんなに相手に尽くしてきたから、相手もわかって

くれるだろうと、何かの見返りを期待しての親切や善行は真の

善行とはいえない場合だってあるのです。神仏がちゃんと

見ていてくださるというのは、その善行の行為そのものでなく、

それを行っている心をご覧になるのです。

 どういう心で、どういう気持ちで行っているのか、その心を神仏はご照覧に下さるのではないでしょうか。

信心家として毎朝仏飯、香華を供え、経を上げ、拝んだり祈ったりする信心は、病気にならないためや、

ぽっくり往かせてもらうためにするのでなく、自らのこころの修行としての精進(努力)であり、神仏への

誓い立てでありたいものです。その真摯なる心、純なる姿にこそみ仏はよくご加護くださり、真の安心と

幸せの境地を下さるのだと思います。


最後までお読み頂いてありがとう御座います。

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