心の紋様
以前、賽銭箱を寄付したいと言う申し出がありました。せつかくながら、
承福寺の本堂に賽銭箱はあまり似つかわしくないので分けを言い、別の品を
ご奉納してもらったことがありました。賽銭という言葉は元来、仏教用語
ではありません。
昔、神への供物として米を供え献じたもので、これを散米と言いました。
その米の代わりに銭を供えるようになって散銭となったと言う事です。
歴史的にも比較的新しく、天文年間、鶴岡八幡宮で散銭箱が置かれたと言う
ことで、当時「昔から、こんな箱は置かれた事は無かった。大変無礼な事だ」
と非難されたくらいです。それがやがて散銭から賽銭に変わったらしいので
す。賽銭の「賽」と言う字は報い参ると言う意味で、神仏から福を受けた事に
対するお礼参りの意味です。だから賽銭は神仏に対する感謝なり、お礼のお
参りに際して、金銭を以ってお供えすることでありますが、感謝を捧げる
お供えなら、真心を尽くしてお供えすべきです。
多くの人は習慣的に仏前や神前に立てば、小銭入れをあけ、何がしかの硬
貨を供え、家内安全、無病息災、商売繁盛、はては景気回復まで思わず頼ん
だと言う、結構欲張りな祈りをする人までいるようですが、頼み事の祈りの前に、
日々の暮らしの感謝と、自らの精進努力の請願の祈りを忘れて欲しくないものです。
いずれにせよ裸銭を箱の中にポンと投げ込むなど神仏に対して無礼な事だ
と私は思います。金額の多少によらず、ちゃんとのし袋に入れて、丁重にお
供えする真心が神仏に通じるのではないかと思うからです。神仏は、賽銭の
有無や多少によってご加護の加減をされるのでは無く、祈る人の真実なる心、
誠実なる行い、着実なる努力に対して、ご加護下さるのです。 神や仏に対
してお供えするのは、その祈る人の誠意の表れです。誠意の表現がはたして、
裸銭を投げ入れたり、遠くから投げつける事でしょうか。信仰心に基づき、
敬虔に御供えをしたいものだと思います。