−こころの紋様−


〜大自然の厳かな儀式〜

海は祈りを誘う


   「荒れ狂う海、太陽が没していく海、波もたたない静かな海、、、、。  どの場面でも、一日見つめて

いても飽きることがない。とりわけ歩いて、夕日が落ちていく時が一番好きである。この時に、私は神を

感じる」とは数十年の、玄界灘の海岸を歩き、様々な漂着物を採集し、漂着物研究学者の石井忠先生の

言葉である。 私も時々であるが、同じ浜辺でのジョギングを始めてから、かれこれ二十年にもなろうか。

だから、「夕日が落ちていくときが一番好きである。この時私は神を感じる」と言う気持ちには私も全く同じ

思いがする。  


夕暮れの浜辺を駆けているとき、沖へ向かって手を合わせ

祈る人を時々見かける時がある。

祈りの邪魔にならぬよう、知らぬ振りをして通り過ぎながら、

「何を祈っているのだろうか?」などとふと人の心をのぞいて

みたくなる。 しかし、私も考えてみれば、自分自身が海に

祈りを捧げているのかも知れないと言う思いになる。

 私は海に手を合わせて祈るということはない。だが、波荒き時も、なぎ(凪)の静かな時も、ただ一人

海辺を駆けているとき、気持ちはいつも祈りの中にいて、海に祈らされているようにも思う。

 陽は沈みかける、あたりは何もかも赤く染まり、水はキラキラと輝きながら暮れゆくつかの間、波の音は

静まりて、大自然の厳かな儀式の中にいざなわれる。


一日のクライマックスにしては何とも心寂しさに包まれたような、

貴き人に追いすがるように、思わず手を合わせたくもなる。夕暮れの

海は不思議な力を持っている。海は神宿るかのように、否や、自然が、

海が神そのものなのかもしれない。 


 拝む手を通して陽は沈みながら、だんだん大きくなって、さらにさらに赤く燃え、祈りの人をすっぽりと包む。

体いっぱいに満ち足りた気持ちになる時、もう辺りは薄暗く、何とも不思議な海の夕暮れである。

 古代より海は祈りを誘い、人は海へ祈りを捧げてきた。荒ぶる海は人のおごりの心を打ち砕き、その愚かさを

教えてくれる。広く静かな海は、悲しく小さな者や傷つき弱った者を優しく包み、なぐさめてもくれる。

だから人は神として海へ手を合わせるのかもしれない。



 
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