禅に徹した悲運の勇将

宗像大宮司氏貞公

 

 

宗像氏は宇多天皇末子正三位中納言清氏親王を祖とし宗像大宮司として祭政にあたり、宗像を中心に一大勢力を誇っていました。

79代氏貞公は乱世の中8歳にして家督をつぎ、難苦の中に成長し勇を振るい、威をたくましくして、所所分散の旧領を復し、士を撫で民を育て非と簿との崇敬をあつめたと言われています

天正14年(1587)3月急に病を発し42歳にして世継ぎもなきまま、はかなくも没しました。

しかしその頃は豊後のを大友氏の勢等と敵対し、的はすきあらば攻めんと窺う時であったので、重臣らは氏貞の遺言を守り、氏貞の死を堅く秘し、病中と偽り、夜中ひそかに遺骸を竹籠に納め、占部右え門が背負い、居城であった羅ケ嶽城(赤間の城)より承福寺に運び葬ったのです。

氏貞公は早くより禅に参じ、仏法に心を傾け、承福寺13世端林和尚のもとで座禅弁道に励み、禅の奥義を悟ったといいます。

この他氏貞公は宗像神社の復興(現在の神殿等)はもちろん、廃壊せる寺社多きを嘆かれ建立や再興のための寄進をしたる寺社は実に56寺社にも及んでいます。

かくして79代氏貞公にして栄華を誇った宗像家は、はかなくも断絶してしまいました。

 

 

 

 

 

 

 

 

宗像氏貞公

 

町史跡文化財

宗像黄門氏貞御搭
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